〇「ヤマシズム学園についての三重県アンケート」について
友人から「ヤマシズム学園等から公立小中学校に通学する児童・生徒に対するアンケート調査記述内容一覧表」をコピーしたものの資料が送られてきた。
このアンケートは、1998年頃ヤマギシズム学園が自前の小中学校設立を企図し、三重県に申請している。その実態調査のため三重県生活部私学課という部門で調査した内容を指す。調査日:平成10年11月27日、調査場所:県内7小中学校、平成11年3月9日三重県生活部青少年・私学課となっている。
このアンケートは、2003年に刊行されていた『虐待の真実』によるものであり、友人によるとその資料が記載されていた書籍はすでに廃刊され、所持されていた方から拝借してコピーしたものという。それ以前に米本和広『カルトの子』(文藝春秋、2000年)の巻末に抜粋紹介がある。
アンケート調査の内容は「選択回答の集計結果」と「記述式の内容一覧」からなる。記述式の内容は、子どもたちや元学園性などから断片的に聞いていたが、このように当時の小学生190名、中学生217名の一人ひとりのを読み始めると、なんともやるせない思いが沸いてくる。
ヤマギシ会は幸せに生きることを願う共同体としてうまれ、農民たちをはじめ多くの共鳴者を得て、その後実顕地をつくり、それなりに発展してきた。私を含めて、そこに参画した人、熱心な会員活動をしていた人は多かれ少なかれその思いを懐きながら活動していたと思う。
その後参画者も増え学園構想「心あらば愛児に楽園を」に基づき、幸福学園、幼年部、ヤマギシ学園をつくってきて、一部の研究者などに注目され、子どもを伴って参画する人も少なからずいた。
私は25年以上携わったヤマギシでの在り様について、あれはどういうことだったのか? 面白いところも、社会実験的なことも、おかしなところも、きちんと振り返っておきたいと思っている。
自責の念というより、そこで人生の多くを過ごした自分にとって、戦後生まれた最大のコミュニティとして理想を掲げた集団の影響力の大きさから、次代に活かすためにもそこで起こった課題にきちんと向き合い分析したいと思っている。
このアンケートから見えることは、大人が描く考え方に相応しい人になるための学育方式の極端な統制型であった。要するにこの学育方式は、実顕地を担う養成所だったのである。
そのような学育方式でも、ある程度こなしていけた子にとっては、その子の持っている力やその他の要因で、ある種の逞しさを身に着けた人もいるが。
しかし、その学育方式についていけなかった子に対しては、あまりにも非道なためなおしや、ここにいる資格がありませんなどの切り捨てが安易に行われていた。そのことで押しつぶされ、いまだに悶々としている人も少なからずいる。
大人・親はある程度、調べ考えた末に共鳴して参画した。ところが親に連れてこられた、自らの意思で選び取ったわけではない多くの子どもたち、成長段階にあり、これからいろいろなことを身に着けていく子どもから見たら、実顕地の学育方式が一枚岩のごとく立ちはだかっていたのではないだろうか。
〇言葉のお守り的使用と当時(1990年代)の学園について
「ひこばえの記」4月19日に「鶴見俊輔「言葉のお守り的使用法」から」を掲載した。
それは、鶴見俊輔は自らも含めて立ち上げた雑誌『思想の科学』の活動目的は、「第一に敗戦の意味をよく考え、そこから今後も教えを受け取る」こととし、「大衆は何故、太平洋戦争へと突き進んでいったのか?」を問い始める。その理由の一つとして、「言葉による扇動である」と考え、最初の論文として、『思想の科学』1946年5月号(創刊号)に発表した論考である。
鶴見俊輔は(『期待と回想』(上巻),p.141)で次のように語っている。
〈----(戦時中)余暇にジャカルタの図書館からマリノフスキーの「未開人の言語における神話」という論文を借りだして読んだ.それが「言葉のお守り的使用法について」のヒントになった.軍人が殴る前に説教するでしょ。まず「畏れ多くも」とあって,「パチン!」とくる。これは記号論として解明できる。「肇国の歴史の精神に則り」とか,そこに出てくるシンタックスはカルナップのいう「変形の法則」なんだ。かれに習った分析哲学が勅語の演説にきちっと合う。「ああ,これは一つの仕事になるな」と思った。「言葉のお守り的使用法について」は,オグデン,リチャーズ,その付録にあったマリノフスキーの影響を受けている。これはコミュニケーション論です。〉
個別研を頻繁に受けていた子どもによると、その理由は、どうもこの学園に相応しくない言動によるものらしいが、本人にはまったく訳が分からない。したがって反省文を書くらしいが、何を書いていいか全くわからなかったという。
「この学園に相応しくない」ということは、この学園は素晴らしいものという含意があり、それを決めている人、多くは指導的立場にある人の見解によるもので、曖昧この上ないものである。
この曖昧な「学園に相応しい子」が育つような方針のもとにカリキュラムが組まれていて、指導的立場の人が編み出したとはいえ、少ならずの世話係が忠実に従い、あるいはそれ以上に忖度していたのではないだろうか。
「この学園の精神に則り」、「畏れ多くも」とあって,「パチン!」とくる。その言葉もなしに、いきなり「パチン!」とくるのが、その当時(1990年代)の学園の一つの現象だと思っている。
アウシュビッツの経験を問い続けたプリーモ・レーヴィに、「ありとあらゆる論理に反し慈悲と獣性は同じ人間の中で同時に存在し得る」(『溺れるものと救われるもの』(竹山博英訳、朝日選書)というような表現がある。ごく普通の人たちがナチス体制を支えていたとの記述がいくつか見られる。
ここで課題にしたいのは、同じ人間が、どのようなときに「善性」が働き、どのような経緯で人を思い通りに制御するような「悪性」のようなものが色濃くでてくるのか。その態度はどのようにできてくるのか、その頃の自分にも引き付けてじっくりと見ていきたい。
参画者による実顕地の暮らしでは、『カルトの村で生まれました』に描かれているような、体罰や食事抜きなどのことは、私の知っている範囲では全くなかった。(精神的な圧迫感を覚えていたひとはいただろう)ので、その頃の学園の実態に殊更愕然とするものがあった。
だが、その頃の実顕地に、そのようなことになるような構造があったのではないかと考えている。そのことは、その構造の一端を担ってきた自分の課題にもなってくる。
参照:鶴見俊輔(『期待と回想』〈上巻〉(晶文社,1997)
高田 かや (著)『カルト村で生まれました』( 文藝春秋、2016)