広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎吉田光男『わくらばの記』(19)

わくらばの記 たまゆら➂(17・3)

(3月×日)

 朝日新聞掲載の片山杜秀氏の文芸時評を読んでいたら、次のような言葉にぶつかった。

「近代西洋思想は進化や発展や成長のことばかりを言いたがり、過去よりも未来に高い値打ちを与えたがる。しかし、過去も現在も未来も、結局はそれを考える人間の意識の中にしか存在せず、意識は常に現在進行形なのだから、過去と未来という一緒にならぬはずの時間は現在の意識の中で重なる。そういう時間を一所懸命に区別しようと思うことがおかしい」

 

 進化や進歩や成長がかなり疑わしくなった今では、この言葉はかなり納得できる。ただ今回この言葉に注目したのは、先月書いた老蘇についての私の見方が、やや偏っていたのではないかと思わせられたことである。つまり、「年をとるまでに自分の内部に蓄積(内化)したものが少ないか無に等しい場合は、老蘇としての生き生きとした人生は送れないのではないか」と書いたことだ。

 内化したものの質や量が、人によってそれぞれ違うことは当然だが、それが少ないとか無に等しいなどとは言えないのではないか。人によってそれぞれの経験があり、記憶・思い出がある。その過去の経験・記憶・思い出を今に蘇らせ、それが自分の人生にとって何であったのかを見つめなおし、残された人生に活かす。こうして、過去は現在の中で未来と重なることができる。ここに老蘇の生き方を可能にするものがあるのではないだろうか。

 ただ、過去を過ぎ去った昔の出来事として固定して動かすことができなければ、それは古びた日記帳のようにただ朽ち去る以外にない。介護にとって一番大事なことは、身体的なケアとならんで、この心のケア、過去を今に蘇らせることを、老蘇自身ができるように手助けすることではないかと思った。

 

〈3月×日〉

 このところ全く食欲がない。味の感覚もどんどん失われていく。いよいよ食べなくてもいい体になりつつあるのかもしれない。一時は栄養学説などに惑されて、食べなくてはいけないと思い込み、無理にも食べていたが、体の欲求と頭の思い込みとが全く違うことを思い知らされている。『月刊文春』3月号で、鎌田実氏だったか誰かが言っていたが、昔は死者はやせ衰えて軽かったが、最近はやたらと肥え太って運び出すのに苦労する遺体が多いそうだ。食べられなくなったら食べない、それが本当の姿かもしれない。

 日本には木喰という生き方があった。死期が迫ったとき、米食など普通の食事をやめて、木の実だけで静かにそのときを待つ生き方である。江戸後期の遊行僧にそんな生き方をした木喰上人がおり、各地に木彫仏を残している。

 私自身は悟りとは縁遠い人間であるから、これからどうなるかはわかったものではない。ただ、できる限り自分の体と心の変化を受け止めながら、それを見続けていきたいと思っている。

 

〈3月×日〉

 今回の芥川賞受賞小説『しんせかい』は全くつまらぬ小説だった。倉本聰氏の富良野塾を舞台にしているというので少し期待していたのだが、選考委員の一人である村上竜氏が、「何でこの小説がみんなに推されたのかわからない」 

というように、私には時間の無駄だったという思いしか残らなかった。

 それに引き換え、遠藤周作氏の『沈黙』は、すごい小説だ。映画化されたのをきっかけに読んでみようと思い立ったのだが、ちょうどその前に、中野京子氏の『名画と読むイエス・キリストの物語』を読んでいて、旧約の〈怒りと懲罰〉の世界から、新約の〈愛と許し〉の世界へと変わることで世界宗教に発展するキリスト教が、現実の歴史の中でどのように命脈を保ってきたのかを知りたいと思ったのである。

 

 寛永14(1637)年の島原の乱以後、隠れキリシタンが僅かに残る江戸期日本に、二人のポルトガル宣教師(パードレ)が潜行してくる。そのうちの一人、セバスチァン・ロドリゴが物語の主人公である。二人が日本に密航するきっかけは、二人の師でかねがね尊敬おくあたわざるフェレイラ師が、日本で転宗したという情報が伝わったからであった。

 二人は澳門(まかお)で密航船を探し、日本人の漁師キチジロウと出会う。そして支那人の船員を雇って大海原に乗り出し、ついに日本への上陸に成功する。問題はここからである。

 二人は隠れキリシタンが潜むいくつかの集落で、洗礼を授け、告悔を聞き、ミサを行うが、やがて当局の知るところとなり、二人は別々に逃亡するが追跡の果てに逮捕される。たくさんの農民も逮捕されるが、彼らは次々と残酷な方法で処刑される。彼らの逮捕は、キチジロウの密告によるものであった。

 柱に括りつけられたまま海水に付けられ、潮の干満によって徐々に体力を奪われていく処刑、流れの速い海流に放り込まれて殺す処刑、深い穴に宙吊りのまま放置されて苦しみながら死ぬ処刑、ロドリゴはそのつど「いま一番神の奇跡が必要な時に、神はなぜ沈黙のままなのか」と問う。これは神の実在に対する根本的な問いである。小説の中でこの問いが、繰り返し繰り返し出てくる。「あなたはこんな時になぜ沈黙しているのですか?」と。この問いは、キリストが十字架上で死ぬ直前に発した「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたまひし)」という叫びと共通しているように思える。

 キリスト教徒にとって、この問いは信仰の根本に触れる問題であろう。ドストエフスキーは、「神は実在するか、不死は実在するか」と小説の中で何回も問いかけている。宗教史に無知な私には、詳しいことはわからないが、恐らく何人もの人たちがこの問題に真正面から取り組み、神の実在を証明しようとする生き方を通してキリスト教の生命力を持続させることに成功したのであろう。

 
(ここまで書いてきて、この先数行が書けない。体調が急速に悪くなっている。

 食欲が無く、食べる意欲がわかない。集中力が失われてきた。いよいよその時が近づいてきたことを思い知らされる。いま風呂に行き、体重を量ったら40・3キロ、遂に41きろを大幅に割り込んでしまった。鏡に映る姿はまるでアウシュビッツの囚人さながらだ。しかし、この文章は最後まで何とか書き上げてしまいたいと思っている。恐らくそれは、思想なり、理念なり、信仰なりが、歴史的に生き残り、普遍化するための決定的な条件をなすものと私には思えるからだ)

 
〈3月7日〉

 今日病院へ行ったら、即明日から入院ということになった。食事ができず、ジュースとヨーグルトで生き延びてきたが、そろそろ限界らしい。検査の結果は、ガンがだいぶ進行して、肝臓に転移したものがかなり大きくなってきているとのことであった。他にもいろいろあったが、細かいことは素人にはよくわからない。とりあえず一週間ほどの入院になる。

 この「わくらばの記」も、このへんで打ち止めということにしたい。まとまった思考が困難になってきている。集中力を持続できない。もし、何か書くことがあったにしても、それは恐らくそれは思考の断片か思いつきの域を出ることはないだろう。

 では皆さん、お元気でお過ごしください。