広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎書評『追わずとも牛は往く』

〇本書は、著者の40年ほど前の1976年から2年程の「北海道試験場」(「北試」―ヤマギシ会)の体験をふまえ、書き進められた記録文学である。

 実際の「北試」というより、その可能性をひろげた著者自身の想定した「睦みの里」であり、著者から見たヤマギシズム生活の振り返りである。

 著者が1976年から2年間体験した「北試」は、当時さまざまな研究者などから注目されていた。読むに従って、共同体とは何か? 労働とは? 人と人との生身の人間としての心の交流とは? など、ともに考えていく内容に満ちている。

 また「理念」でつながる共同体と、一人ひとりの「生命力」でつながる共同体の本質的な違いを思った。

 最後の10頁程のエピローグで、「睦みの里」の解散から、「実顕地」での著者の体験の20年余にわたる総括が述べられる。そして現在の心境が語られる。不思議な構成の作品である。

 エピローグの『ヤマギシズム実顕地』での著者の体験の20年余にわたる総括部分は、ある程度「実顕地」を知る人にとっては、簡潔にまとめてあるように思う。

 本書の特質として、ヤマギシの生活体に関するおそらく初めての文学作品となるだろう。

 今後の希望として、著者自身のことを主にして、「ヤマギシズム生活、実顕地」の村人一人ひとりがどのように変容していったのか、その心の動きなど、著者の視点から、きめ細かく描いていくことが、「ヤマギシズム生活体、実顕地」について、さらに『睦みの里』と併せ読むことを通して、机上のコミューン論を超えた一つの記録文学になるのではないだろうか。

 

参照:本書「エピローグ」より

エピローグ 

 一九七八年三月 『睦み』メンバーはほとんど全員が『全人愛和会』に再参画。『睦みの里』は解散した。(※「全人愛和会」は「ヤマギシズム実顕地」のこと)

(中略)

  その後の全人愛和会について特筆すべきことは多い。まずその発展の目覚ましさは、その種の共同体運動の中では画期的なものであった。

 その一つは一九八〇年ころからの養鶏等の産直路線の成功とそれによって各地に鶏舎建設をベースにした新たな生活体が急激に設立されていったことである。さらにもう一つはその後、「農体験合宿ツアー」に参加していた消費者グループの子どもらの増大がヒントになり「学園」が構想されていった。全人愛和会メンバー子弟の従来からの生活の場であった「学育」に外から子どもを受け入れたのである。それによって親の参画者も急激に増えてきた。それは結果的に人手不足による長時間労働の改善にもつながってきた。

 それとともに全人愛和会の生活の変貌は、古いメンバーにとっては、まさに夢の暮らしだった。大理石づくりの浴場、普通の家庭料理の水準を越えた食事、こざっぱりした新調の衣服、そして月々なにがしかの小遣い、季節ごとの親睦行事。おまけに診療所や養老施設までできていた。まさに自称するように「ゆりかご前から墓場の後まで」の施設環境まで整備されつつあった。 清貧が旨となっていた理想運動体が、こういう物質的繁栄まで到達できるなどというのはおよそ信じがたいことであった。

  それが可能になってきたのは、直接共同体理念自体への希求があったわけではない。時流にかなった自然食品や教育への敏速な対応からだった。それはそれで経営的には見事なものだったとも思うが、そこに慎ちゃんのいう「なーに理念に負けたんやない、ゼンコに負けたんや」という指摘が一面当たっていないとも言えない。

(中略)

 多くのメンバーにとって全く無自覚であったろうが、そのように全人愛和会の挫折は意外にも早かったのである。学園世話係の暴力事件や参画者の離脱時における財産返還問題を機に外部に反対派も生まれ、マスコミの批判も厳しくなっていった。上層部はその事実をひた隠しに隠し続けたが、一般メンバーはテレビを通じてその事実を知ることになる。その流れの大きな帰結が二〇〇〇前後の全人愛和会メンバーの急激な離脱だった。丈雄夫妻もいち早くそこを離脱する。離脱の始まりはなんらかの内部的な持続運動の帰結というより、個々人の「このままではここには居れない」の直観から始まった〝相互無告〟の行動だった。後には組織的に大がかりな行動に転化し、かなりのメンバーが「全人愛和」の〝壁〟を越えることになる。

 このような過程が示すものは、当然全人愛和会の組織構造の問題だった。これまで「大きな家族」の総親和的イメージの背後に、そこではいつしかごく一握りの指導部による序列化とトップダウンの体制が確立していたのである。丈雄がかつて感銘した「見出そう」「引き出そう」「合わせよう」のメンバーの相互関係がいつしかくずれ、体制に「沿う」「合わせる」が取り組みの主たるテーマになっていった。いつしか上部批判は影を潜め、互いに遠慮なく議論を交わした仲間の姿は消え、残るのは自問自答の息苦しさだけだったと言ってもいい。もはや「ブラブラ」は存在を許されなくなっていた。

したがって〝相互無告〟は必然だったのである。いわば「沿う」「合わせる」だけの世界は、自分の過ちの発見とそれへの自己批判だけが主たる理念上の取り組みとなるしかなかった。丈雄はそれを「取り組みの 内面化による無意識的自己抑制と自他隔離」と密かに規定していた。