広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎吉田光男『わくらばの記』(15)

わくらばの記 ごまめの戯言⑦        

〈11月×日〉

 11月度の村人テーマは、「『研鑽会にしていく』とは?」である。テーマ解説には、さまざまな事例が紹介されており、例えばメニュー板の表示の仕方や風呂の蓋を開けておくのか閉めておくのかといったことが、話題になったと書かれている。前には、シャンプーをどこの製品にするかとか、味付けの濃い薄いといったことも話題になったらしい。しかし、こうした話題のどこがテーマで、何が研鑽されたのかは書かれていない。

 大体、味などというものは、人によって、またその日の天候や体調によっても好みに違いが出るもので、これが絶対に正しい味付けだなどというものはない。しかし、愛和館で大勢の食事作りをする以上、どこかに一致点を求めるのは当然であろう。だから、食生活の人は利用者の声に絶えず気を配るのは当りまえだし、利用者の方も自分の好みと全体との調和を考えていく必要があるだろう。

 しかし、これは話題であって研鑽テーマとは言えない。「メニューどおりに作っているのに、不平を言うとは何か」という一部の食生活の人の心にあるもの、あるいは「今の食生活はまるでセンスがない」と一方的に決めつけている利用者、あるいはまた毎回食材を持ち帰っている愛和館離れの人たち、こういう人たちがお互いに話し合わず、話し合おうともしない心の内にあるものこそテーマであり、それをぜひ研鑽してほしい。そしてそうしたものを出し合う機会がどうしたら作れるかを研鑽していってほしい。

 とにかく今の研鑽会は、現象面や事柄の話ばかりで、その元の心の面は少しも研鑽されていないように感じられる。村人テーマの「研鑽会にしていく」は「研鑽会を研鑽にしていく」と変えた方がいいのではないだろうか。

 

〈11月×日〉

 ブラジルから養鶏法に参加した人が、ひどく嘆いていたという話を人づてに聞いた。嘆きというのは、「若者たちが、時によっては係りまでもが、研鑽中にスマホでゲームをしている」というのである。「こんなことで研鑽になるのか」と言っていたそうだ。

 この話を朝の出発研で出したら、Yさんが「実顕地づくり研でも若者たちは壁際に寝そべってスマホをやっている」と言い、「それでもちゃんと話を聞いているそうですよ」と言った。そこで私は「ちゃんと聞いているかどうか、どうしてわかるの?」と聞き返した。答えはあやふやなものでしかなかった。

 最近はスマホをやりながら車を運転して、事故を起こすケースが続出している。死傷事故も多い。「ながら運転」ではきちんと運転できないからだ。では「ながら研鑽」できちんと研鑽できるのだろうか。

 最近一人の若者に会う機会があり、そのことを聞いてみた。彼は次のような話をしていた。

「学園時代の研鑽と言えば、正座させられて一方的に押し付けられる嫌な経験しかしてこなかった。それでみんな研鑽会嫌いになっている。みんなに勧められて出てはいるけれども、周囲もそれを知っているので研鑽会の雰囲気に触れるだけでもいいと考えて、スマホもゲームも放任しているようだ」

 学園時代の傷跡が今なお深いことを思い知らされた。しかし、スマホをやりながらの参加で、研鑽会が好きになるなどということが考えられるだろうか。そんな状態で行われる研鑽会自体が、ますます研鑽のない、フワフワと浮き上がった集まりになっていくのではないか。そんな参加よりも、別室でゲーム大会でも開く方がよっぽどいい。そして、一度「なぜ研鑽会が嫌いになったのか」を徹底的に出し合う話し合いの場をもったらどうだろうか。心の内にあるものを出し切らない限り、次に進むことはできない。

 

〈11月×日〉

 呉智英氏の『吉本隆明という「共同幻想」』を、題名に惹かれて読んだ。面白かった。呉氏は、まず吉本さんの「マチウ書試論」を取り上げ、新約の「マタイ伝」をなぜフランス語の「マチウ」にしなければならないのか、また「イエス」を「ジェジュ」とフランス語読みにする意図がわからない、と批判し、また「関係の絶対性」といったキーワードも、「人間関係、社会関係全体が、人間の行動を決める」と言えばいいところを、わざわざ難しい特殊概念を持ち出しているだけではないか、と批判している。そしてこの難しさが、当時の青年・学生の信仰を呼びおこし、吉本隆明という共同幻想を招いた、と書いている。

 私が吉本さんを最初に知ったのは、竹井昭男氏との共著『前世代の詩人たち』である。坪井繁治をはじめとする戦時下の詩を取り上げ、こっぴどく批判したもので、鶴見さんの転向共同研究と相まってその後の転向論のきっかけとなった作品である。へー、すごい思想家が出てきたものだ、と圧倒される感じを抱いた。

 その後何年かして、吉本さんの『共同幻想論』『言語にとって美とは何か』『思想の自律的拠点』等が出版され、一応目を通したが、私の悪い頭ではとうてい理解することができなかった。理解はできないけれども、何かすごそうだという印象だけは残った。この印象は今なお消えずに残っている。しかし、最近になってこうした印象にもとづく肯定や否定の考え方は、おかしいのではないかと思うようになった。つまり、吉本さんの思想を肯定するのではなく、共同幻想による吉本信仰になっていたのではないか、ということである。

 これが呉氏の本を買った動機である。ただ私は、呉氏の言うように、吉本さんを批判したいとは思わない。吉本さんの著作を読み直してもいないし、理解もしていないからである。死後、あれだけ多くの言論人が「戦後最大の思想家」と評価する吉本氏を、人の尻馬に乗って批判したり肯定したりするのは失礼な話である。それよりも、自分たちが知らぬ間に行っている別の形の「共同幻想にもとづく信仰」について考えてみたい。

 

〈11月×日〉 

 参画間もなくのこと、ある人から「吉本さんをヤマギシに呼ぼうと思っている」という話を聞いた。私が「吉本さんと話せるような人がヤマギシにいるのか」と聞くと、「一人だけいる」とのことであった。後でわかったことであるけれど、それがSさんであった。すごい人がいるのだなあ、と思った。なにしろ、当時の私は吉本隆明と言えば日本を代表する思想界のトップランナーと思っていたのだ。

 その後話がどうなったのかは知らないけれど、ヤマギシにはすごい人がいる、という印象だけは消えなかった。そして研鑽会などでSさんと一緒になる機会もあり、「なるほどそうか」と感心することが少なくなかった。同席者もみな、「なるほど、なるほど」と頷くばかり。そのうち「Sさんがこう言った」という発言を、その真意や中身を検討するのではなく、それを正しさの基準として物事を判断する風潮が出来上がった。そればかりでなく、Sさんを取り巻く指導部門の人たちまでも、すごい人というヴェールを纏うことになっていった。こうして権威のピラミッドが出来上がってしまった。しかし、この権威のピラミッドを支えていたのは、私たち村人自身である。

 私が「ヤマギシにおける共同幻想」と思うのは以上のようなことである。これは、ヤマギシズムが否定する宗教形態であり、信仰形態にほかならない。信仰による権威が成立すると、極端な論理で全体を動かすこともできる。それが研究・検討・研鑽をことごとく排除してしまうからである。学園の失敗などは、この信仰による権威なしには考えられない。

 ではなぜ共同幻想が成立するのか。自分自身を振り返れば、ずっと人の思想に寄りかかって考えてきたように思う。自分の頭で考えることをなおざりにしてきた。吉本さんの言う〈自立の思想的拠点〉をないがしろにしてきたのである。だからヤマギシズムにしても、山岸さんが何を言っているかはあまり考えようとせず、いま村で言われていることを正しいとして信ずれば足りる、と無意識のうちに考えていた。例えば山岸さんは、青本の中の「自己弁明」のところでこういうことを書いているのに、それを一向に理解しようとはしていなかった。

「……これを以て最上決定的なものと思い込まずに、又貴方の今持って居られるものと、一致しないから駄目ともしないで、相対者と、条理とを、切り離して考察される事が大切で、人物を通さずに、盲信しないで、厳正な批判の眼で検討し、容赦なく叱正され度いです」

 これほど懇切丁寧に語っているにもかかわらず、しかもそこを何回も読んでいるにもかかわらず、なんでこれをきちんと受け止めることができなかったのだろうか。AさんだろうとBさんだろうと、相手がどんなに偉いとされる人物であろうと、相手とその言うこととを切り離して検討し、「人物を通さずに」「盲信しないで」検討・研鑽することがなんでできなかったのだろうか。

 

〈11月×日〉

 人間は権威に弱い。自分がどこか頼りない、弱い人間であることを意識している。しかし、多くの人はそれを認めたくないと無意識のうちに思っている。だから、何かの権威を借りて自分を大きく、あるいは強く見せようとする。虎の威を借る狐である。ここに権威の成立する大衆的基盤があるように思う。そしてこれはそのまま権力が発生する原因にもなる。アンナ・ハーレントがアイヒマン裁判に触れて、アイヒマンを〈巨大な悪〉ではなく〈凡庸な悪〉と言った時、彼女はアイヒマンやそれを認めた当時のドイツ人ばかりでなく、権力にすり寄った一部ユダヤ人さえもその中に含めていたのであろう。そのため、彼女はユダヤ社会から猛烈に非難されさえした。

 とにかく人間は弱い存在である。政治家であれば派閥やボスに頼り、学者であればその道の権威に頼り、サラリーマンは社内の権力者に身をすり寄せる。昔、マルクス主義を信奉していたころ、学者たちがマルクス・レーニン・スターリン・毛沢東やヨーロッパの著名な学者の引用で自分の文章を飾っているのを見て、学問とはこういうものなのかと思ってしまったことがある。批判的検討のための引用ではなく、自分の中身の無さを権威づけるための引用であった。こうした引用癖は、今なお自分の中に根深く残っている。

 村に参画して間もなく、ヤマギシにはすごい人がいる、ということをずいぶん聞かされた。そうかすごい人か、すごいというからにはとにかくすごいんだろう、と

 単純に、会う前から〈すごい〉を自分自身に刷り込んでしまった。そしてSさんばかりでなく、Sさんを取り巻く奥の院の人たちに対しても、次かその次にすごい人というレッテルを張って、自分もその列に加わろうとした。こうした権威主義の体系がどれほど真実の研鑽を妨げてきたかは計り知れない。

 確かに村には尊敬すべき人物はいる。Sさんはもちろん、古い参画者の中には尊敬に値するような人はいる。しかし、私たちにとって尊敬することと権威に服することとは違う。尊敬される人、信頼される人は、他より余計に自らを最も低い位置に立たせるよう努力する必要がある。これを怠ると、いつの間にか自分が高い位置に立つことが当たり前になってしまい、それに気づかずに道を誤ることになりかねない。

 人間は弱いものであり、頼りないものである。それを自覚したときに、人の前には二つの道が開けている。弱く頼りないものだからこそ強いもの、絶対的なものにすがって生きようとする道、ここから宗教・信仰、あるいは信仰的権威への依存が始まる。もう一つの道は、弱く頼りないものであることの自覚の上に、だからこそどんな権威にも頼らず、自分たちの不確かな知恵を持ち寄って研鑽し、より良くより正しからん方向を模索しながら歩むことである。ヤマギシはこの後者の道を歩もうとするものだ。だからこそ山岸さんは、〈自信のない生き方〉を大切にし、自らを〈優柔不断〉と言ったのだと思う。

 

〈11月×日〉

 昨日はひどい目にあった。夜食に豆腐と豆乳のインスタント鍋料理を買ってきて食べたところ、夜中の2時、3時まで吐き続けてしまった。最後の味つけに入れたスープが、韓国風の唐辛子味であることを知らなかったのである。スープが赤いので「もしかしたら」と思いながらも、もともと辛いものに目のない私は、病気になって禁じられているにもかかわらず、少しならよかろうと、二口、三口食べてしまったのだ。眠れないままに、ベッドで『史記』と宮沢賢治の童話を読んだ。

 賢治の童話は筑摩文庫版で全部読んではいる。が、読みながら、自分が賢治の童話をそのまま味わっていないことに気がついた。どうも今までは世間的評価を前提に作品を読み、世評に応じた序列を付けながらその作品群を読んでいたのだ。あまり、取り上げられない短い作品、例えば「蜘蛛となめくぢと狸」「めくらぶだうと虹」などは、改めて読むとすごく味わい深い。そうしてみると、賢治にかぎらず、小説にしても、評論にしても、そのものそれ自体を味わわずに、すべて世評やその他の外的評価に基づく先入観で読んでいたのではないか、と疑われてきた。

 共同幻想による権威への依存という現象も、こうした本の読み方と根は同じであるように思える。食べ物の味わい方から、人の話の聞き方まで、すべて共通しているのではないだろうか。といって、自分の感性を後生大事と守っているだけでは、それそのものの味を味わうことから遠ざかる。頑固人間になるだけだ。

 

〈11月×日〉

 井上ひさしの講演録を読むと、その一つに宮沢賢治のユートピアを語ったところがある(『この人から受け継ぐもの』)。まず井上さんは賢治の思想をこう要約している。

「これは賢治が羅須地人協会でしきりにいっていることですが、百姓はただ土を耕しているだけではだめであって、同時に芸術家でなければいけない。さらに同時に宗教家でも科学者でもなければいけない。一人の人間はその四つぐらいを兼ね備えないと人間として楽しく一生を送れないということを、手を替え、品を替えていっています」

 ちょうど第一次大戦の後、バリ島ブームが起こって、新たに発見された桃源郷として世界の注目を集め、賢治もずいぶん資料を集めていたらしい。当時のバリ島の人たちがどんな生活をしていたかを、井上さんは次のように語っている。

「バリ島の人たちというのは、まずヒンズー教徒であり、そして農民であり、同時に芸術家でもあります。バリ島では朝早く起きて村へ行きますと、きれいな田んぼでみんな働いています。ところが、それは十時ぐらいにはもうやめて、ごはんをゆっくり食べて、昼寝なんかして、ちょっと近所のお寺へ行く。それからお寺で闘鶏の賭事をやったりして、夕方五時ぐらいになりますとそれぞれの家へ引きあげて、今度は観光客が来ようと来まいと、いろいろ芸事に精をだします」

 昔、何で読んだのか覚えていないが、マルクスが未来の共産主義社会の住民の姿として「朝は農民として、昼は牧人として、そして夜は批判的批判者として」と書いていたように思う。どうも不正確であまり責任は負えないが、バリ島の話を読んで、この言葉を思い出した。また、水木しげるさんの漫画『総員玉砕せよ』にも、近代社会に毒されていないボルネオ原住民のユートピアが描かれている。

 宮沢賢治のユートピアは、こうした社会を岩手の花巻に作ろうとして、その理想の社会を〈イーハトーボ〉と名づけた(イーハトーボとはエスペラント語で岩手県のことらしい)。そのための母体が羅須地人協会なのだが、現実的にはあまりうまくはいかなかった。

 ここで井上さんは、ユートピアは実際には成り立たないだろうと言う。なぜなら、ユートピアというものは「結局、平等をめざすのですから、もしみなさんがそこの住民になったとしたら、即日けんかになってくると思います」「まず、着ているものは同じでなければいけない。人とちがったことをしてはいけない。そうじゃないユートピアもありうるかもしれませんが、しかし、あくまで平等をめざすということであれば、最初はそうなると思います」

 そこで井上さんは、そうした空間的・場所的なユートピアではなく、時間限定のユートピア、例えば芝居やコンサートで或る一定の時間だけみんなの心が溶け合い、終われば元の生活に戻るようなユートピアを提唱し、これを時間のユートピアと名づけている。

 確かに歴史上のユートピア運動を見れば、それが社会主義的なものであれ、無政府主義的なものであれ、あるいは宗教的なもの、協同組合的なものも含めて、すべて失敗に終わっている。それは、井上さんの言うように平等を目指すものであったからだと思われる。しかし、井上さんの言う〈平等〉は私たちの考える平等とは異なっている。それは均等であり、悪平等であって、真の平等とは違うのではないだろうか。次はそのへんを考えてみたい。

 

〈11月×日〉

 山岸さんは青本の中で、平等についてこう書いている。

「平等にしても、誰もが同じ大きさの家に住み、同じ衣服をまとい、同じ物を同じ量たべて、同じ作業をし、又は同一の考え方を押し付けたりするのは、悪平等で、誰もが、どんな家にでも棲み得て、身に合う衣服を着、胃の欲求に応じて食を摂り、心身が充分に休まる丈眠って、起き度い時に起きる等の自由が、平等に得られる事が、真の平等だとします」

 戦後の民主主義教育の中で、平等とは均等に分けることだ、という教えが広く浸透した。私たちの頭の中にもしっかりと根付いてしまった。もちろん井上さんの頭の中にも染みついてしまったことだろう。だから、井上さんが時空のユートピア、場としてのユートピアに反対する理由はわかる。しかし、そのままでは人類から永遠に争いは無くならない。戦争、公害、自然破壊はなくならない。では、どうするか。

 昭和28年、農業養鶏を契機に始まったヤマギシズム運動は、戦争・公害・自然破壊のない、自由と平等の新しい社会を目指す運動として展開されてきた。特講も、百万羽も、試験場も、実顕地も、すべてその目的に沿って設けられてきた。その後の、供給活動・楽園村運動・学園運動もすべてその目的のために行われてきたのである。では、その内実はどうであったか。

 現実は山岸さんの考えとは違って、真の平等とはほど遠い悪平等の世界を作ってきた。例えば学園では、朝は5時から一斉に農作業、着るもの、食べるもの、生活時間もほぼ同じで、読むものは漫画は禁じられて或る一定のものしか読むことができなかったという。しかもこれが、暴力をも含む或る種の強制力で行われてきた。そしてその実態を知らされていなかったとはいえ、学園は多くの村人たちの支えによって15年以上にもわたって運営されてきたのである。

 学園運動や楽園村運動については、もっと専門的に調べていく必要があるが、ここで考えたいのは私たちの間に今なお存在する誤った平等観についてである。平等とは、みんな同じにすること、均等に分けること、こうした横並びの思想はかなり根深く染みこんでいるのだはないだろうか。このへんを徹底的に研鑽しておかないと、井上さんの言う〈平等〉意識に再び足をすくわれることになりかねない。悪平等を平等と考えている間は、人類は戦争から抜け出すことはできず、破滅への道を歩み続けることになる。

 

〈11月×日〉

 今月の検査結果が出た。ある程度予想していたことではあるが、ガンマーカーの数値が上昇している。担当医からは、抗がん剤をまた使ったらどうかと提案された。しかし、抗がん剤使用後の不快感を思うと、自分としては使いたくないと思った。医師は「もちろん本人の意思が一番大事ですから、それは尊重さるべきものです。ただ、ご家族の考えも大事ですから、ぜひ皆さんで話し合って結論を出してほしい」と言う。自分一人で生きているわけのものではないから、いかにももっともな話である。さっそくひろみが段取りして、娘夫婦、息子夫婦と妻・私の6人の話し合いを持った。

 まず私から状況説明をしたあと、自分の死生観のようなものを話した。

「抗がん剤というのは、がん細胞ばかりでなく健全な細胞も攻撃するので、さまざまな副作用が出てくる。例えば白血球・ヘモグロビンの減少、食欲不振・吐き気・下痢など、こうした副作用で体力はかえって衰えるのではないかとも考えられる。抗がん剤を使って多少の長生きができたところで、それがただ生命現象を長引かせるだけのものであれば生きる意味がない。多少短くとも、最後まで充実した人生を送りたいと思っている」

 みんなの意見は、Yを除いて「それでも抗がん剤を使った方がいい。前の80グラムではなく、先生の言う50グラムに落として使ったらどうか。それでもしんどいのであれば、その時止めても遅くないのではないか」という意見であった。

 私は、もう一度立場を変えてみての意見を求めた。

「もし自分が80を過ぎてがんになり、余命旦夕に迫っている中で、多少の延命効果しか期待できない抗がん剤を、苦しさと不快感を押してまで使うだろうか」

 しばらく考えてもらったが、結果は変わらなかった。もし、自分が子どもの立場だったらどう思うかと考えてみたら、みんなと同じことを言ったかもしれない。よく「相手の立場に立って」などと言うが、そんなに簡単に相手の立場に立てるものでないことがよくわかった。結局、みんなの意見に従って、しばらく抗がん剤を使うことにした。

 このことを書きながら、ふと昔の増田さんとの別れを思い出した。増田さんとは老蘇・病身者特講を一緒にやったりして、結構深い付き合いをしていた。大田原から全国調正世話係研に来て、終わってからその病室を見舞った。末期がんの増田さんは、明らかにその最期が迫っていたが、大粒のブドウを一つ口に入れて「おいしい」と言ったのが印象的であった。別れの握手をしたとき、増田さんの眼から大粒の涙が一つだけ転げ落ちた。このとき、増田さんの心の中に何があったのかはわからない。が、この時の情景はいつまでも私の心に残っている。その日の夜、大田原の帰り着くと「増田さん逝去」のファクスが追いかけてきていた。

 

〈11月×日〉

 時々、自分の特講を思い出すことがある。昭和48年だから、もう43年も前のことになる。白い共産部落と言われた心境農産を訪ね、樫原神宮を詣でた後、春日山に行った。

 特講は20数人の参加者であったが、日大全共闘の闘士ややくざっぽい若者などもいて、なかなかにぎやかなものだった。最後の晩は、酒盛りで夜を明かすありさまで、どこまで研鑽できたのかわからない。私は、怒り研も割り切り研もさっぱりで、何ひとつわからぬうちに終わってしまった。しかし、終わったとき、霧が晴れたような、温かい太陽に包み込まれたような、かつて味わったことのない開放感に浸っていた。これは、本当に不思議な感覚だった。

 特講でもう一つ耳に焼きついたのは「なんで?」という問いかけである。いくら自分が答えを言っても「なんで?」の問いしか返ってこない。一晩徹夜でこの問いを問いつづけられると、もう「なんで?」が、相手からの問いなのか自分が発する問いなのかわからなくなって、自分の中にどっしりと居座ってしまった。

 今考えると、これは実に大きな宝物であった。永久にその姿を現すことのない宝物ということができる。ただ参画後は、その問いに答えを見い出すことに力を入れてしまった。そして、問いに答えを見い出したと思った瞬間に、宝物はガラクタに変じてしまった。永遠の問いが、ありきたりの、常識的な問いに変わってしまったのである。

「なんで?」の問いとならんで「本当はどうか?」も、同じように重要な問いである。「これが本当」と思えることがあったにしても、それは「今はそう思える」というだけであって、今、とりあえずの答えにすぎず、本当はどうかわからない。この二つの問いを持ちつづける限り、イズムに固定も停滞も生じない。生命力を失うことはあり得ない。

 

〈11月×日〉

 アメリカ大統領選挙でトランプ氏が勝った。E・トッドさん以外にトランプ氏の勝利を予測した人はほとんどいなかった。これは、民族主義的な右派勢力の勝利というより、資本主義の終末現象の表れと言うべきものかもしれない。

 最近、前から気になっていた水野和夫さんの『資本主義の終焉と歴史の危機』を読んだ。2年以上前に出されたこの本の主張は、古くなるどころかますます事実として認証されてきたように思える。水野さんは、現在の資本主義体制は「地理的・物的空間(実物投資空間)」からも「電子・金融空間」からも利潤をあげることができなくなっていると書き、続けてこう言っている。

「資本主義を資本が自己増殖するプロセスであると捉えれば、そのプロセスである資本主義が終わりに近づきつつあることがわかります」

 NHKの3回シリーズ「マネーワールド」によれば、世界の大金持ち62人の総資産は地球上の36億人の総資産と同じであるという。また国家と企業の総収入を一列の並べると、ベスト100中70が企業の占める割合だというのだ。グローバル企業は、すでに国家を超えた存在になっており、南米などでは企業が国家を収奪しているという。

 資本主義は、絶えずフロンテイァを開拓することによって発展してきた。最初は物づくりによって市場を世界に広げ、商品市場の伸びが鈍化すると、次に電子・金融空間を作り上げて新たなフロンティアを開拓してきた。そして今、それも飽和状態になると、次のフロンティアとして国内外の差別化を推し進め、中間層からの収奪と貧困化を生み出している。かつて中間層が7割を占め、オール中流化と言われた日本は、今や正規労働者が減り非正規が圧倒的多数を占めるようになってきた。そして年金は削られ、医療費負担は増やされ、その上カジノまで作って有り金を搾り取られようとしている。

 こうした資本主義の現状は、アメリカでも、カナダ、イギリス、フランスでも同じような現象を引き起こしている。アメリカのトランプ現象は、単なる右派国家主義的勢力の勝利というより、こうした資本主義の行き詰まりの表れと見なければならないだろう。この先資本主義がどうなるか、どうすべきなのか、誰も答えを知らない。ヤマギシズムの考えの中にその正しい答えが含まれているのか、もし無所有一体の考え方の中にその答えがあるとしたら、それを世界に広めるためにはどうすべきなのか、いま私たち一人ひとりに問いかけられている。

 

〈11月×日〉

 中国の流行語に「喫土」という言葉があるという。投資市場などで持ち金全部を失い、食べるものもなく、土を食べる以外にない状態を言うそうだ。こうした人々がものすごく増えているという。

 最近、中国に関する番組を続けて3本見た。録画しておかなかったので、ほとんど忘れてしまったのだが、一つは農民工の大都市から中小都市への強制的大移動の話である。これまで、8パーセント以上の高成長の中で、農村からの出稼ぎ労働者が大都市や産業都市の建設を支えてきた。しかし、成長に限りが見え始めると、政府は次のフロンティアを中小都市に求め、農民工の中小都市への移動を強制的に行い始めた。その数なんと1億人である。日本の総人口に匹敵する数の農民工を力ずくで移動させ、しかもなんの保証もないのだから、容易なことではない。さまざまなトラブルが発生するが、それは力ずくで押さえつけられる。こうした映像を見ていると、中国に民主主義が定着できない理由が納得できる。

 もう一つの映像は、上海の投資金融市場の話だった。今中国では一日に平均2万社ものヴェンチャー企業が立ち上げられているという。そのヴェンチャー企業の資金需要をまかなうために作られたのがネット金融である。これまでの成長を支えてきた物作りが頭打ちになり、全国1800兆円という民間に眠る個人資産を新たな成長産業に注ぎ込むために、政府の肝いりで民間投資会社の設立が推進された。そして、民間資産の吸収装置として作られたのがネット金融である。雨後の竹の子のように作られる投資会社の利益目標が、或る代表的企業の場合半年で30パーセントというのだからすさまじい。金融ビジネスでも、平均の年利が9パーセントだという。もう事業というより博打である。詐欺により、失敗により、なけなしの金を失うものが続出する。こうして、「喫土」の民が生れる。

 欧米や日本だけでなく、中国でも、都市と農村の基本的な格差のほかに、都市中間層の貧富の格差は激しくなりつつある。インドなどはもっとひどい状態になっているのではないだろうか。

 現代文明の先行きはどこに向かうのだろうか。私などにはとうてい見通すことはできない。