広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎吉田光男『わくらばの記』(14)

わくらばの記 ごまめの戯言⑥

10月×日〉

 昨日、豊里のSさん夫妻が来た。ゆっくり話すのは久しぶりのことで、いろいろ意見を交換できて面白かった。特に、養豚では最近、最新式の豚舎が建てられるようになったが、かえって手間のかかることが多くなったらしい。人手不足の解消や労働の軽減をねらっての新設ではあるが、十分な試験研究がなされていないために、さまざまなトラブルが発生しているとのことであった。これは導入直後の一時的な現象で、やがて解消されていくのかもしれないが、一部に次のようなことが言われているとのことで、それにはいささか首を傾げざるを得なかった。

「試験場がなくとも、世の中の最新のものを利用すればいいのだ」と。

 本当にそうなのだろうか。確かにIT関連のものなど、世の最新の技術を利用していることは間違いないが、それだけでは世の一般企業と何ら変わらぬことになってしまう。

 技術と精神は切り離せぬもの、とするイズムの本質から見てどうなのだろうか、との疑問を打ち消すことができなかった。

 

〈10月×日〉

 最近、いろいろの人が訪ねて来てくれるようになった。宿舎まで来てくれるので、ゆっくりと話ができる。病気見舞いを兼ねてということではあるが、私が意外と元気なので拍子抜けさせているのではないかと、かえって申し訳ない気持ちがする。考えてみたら、これほどゆったりと人と話をしたことはあまりなかった。研鑽会での話し合いやロビーや道端での会話が多く、何となくせわしない感じがしていた。しかし、今のような本心からの話し合いができるのは幸せである。これも、病気になった功徳かもしれない。

 病気の功徳ということを考えると、一番大きかったのは、ガンという病名を告げられた時に、「ああ、これで自分の死にざまが決まった」という覚悟ができたことだ。考えてみたら、あの世に持っていけるものなど何一つないし、自分を飾ったり、ごまかしたりする必要が全くないことにも気づかされたのである。無所有とか無我執というのは、頭ではわかっていても、なかなか身に染みてわかるところまではいかない。しかし、眼前に死が迫れば、いやでもそれを認めざるを得ない。知人の葬儀で死者に対面すると、ほとんどの人が仏様のような顔をしているが、恐らくすべてを放し切った心境になったからなのだろう。私自身は、まだまだその心境には遠いけれども、だいぶ楽になったことは間違いない。

 病気のもう一つの功徳は、病気をきっかけに自分の人生を振り返ってみようと思い立ったことである。何も誇るべきもののない、恥ずかしいような生き方しかしてこなかったが、その恥ずべき生き方を見つめ直せば、人間一般に通ずる何かが見えてきはしないか、と思ったのである。

 今は読みたい本を読み、書きたいものを書き、話したいことを話す毎日で、実に快適である。実顕地がそれを許容してくれていることは、本当にありがたいことだと思っている。このぶんなら、死の瞬間を最大の極楽境にできるかもしれない、と思ったりする。

 

〈10月×日〉

 先月のテーマに、「お互いが〈らしく〉生きられる介護環境」というのがあった。〈らしく〉というのはよくわからないが、介護が世間でもヤマギシでも、大きなテーマになってきたことは間違いない。しかし介護というと、どうしても「介護環境」というように、環境面、ハード面に目が行きがちになる。また、ここでは「お互いが」と断ってはいるが、世話する側のあり方だけがテーマになりやすい。村ネットなどを見ても、世話する立場から「こうした、ああした」という話が出て、それがどうであったかという自分の心境面の報告はあるけれども、世話される側の立場から「それが本当にどうだったのか」という反応は出ていない。発表されるのは、世話する立場からの〈自分の見方・見え方〉なのである。つまり、そこには介護する側の一方的な見方に陥りやすい危険をはらんでいるのだ。

 自分が入院したりして介護される立場になってみると、そのことがより強く感じられる。そう感じた時、もう40年も昔の一つの記憶が蘇ってきた。それは参画する少し前に、当時の有名な共同体を幾つか訪問した時のことで、その訪問先の一つに奈良の大倭紫陽花邑があった。そこの身障者施設で、今でいうボランティアをさせてもらい、一人の重度障害者の食事の世話をさせてもらった時の経験である。世話といっても特別に何かするわけではなく、傍の椅子に座って食事を見守るだけなのだが、見ているとその人は手が震えて食事を口元に運ぶまでに大半を床にこぼしてしまう。施設の職員はそれを黙って見ている。思わず私が手を伸ばそうとすると、その職員は「このまま見ていてください」と言う。何か腑に落ちない気持ちで見ていたが、その障害者が僅かの食事をスプーンで口に運び、おいしそうに食べてニコッと笑った時に、疑問はいっぺんに氷解した。そうか、食事は単なる栄養補給のためのものではない、それは生きる喜びであり、しかも自分の手で食べることで日々生きる実感を確かめているのだ、世話をすることでその喜びを奪ってはならない、そういうことが漠然とではあったがスーッと入ってきた。職員の人と話をしていても、食事に時間がかかるとか、後の床掃除が大変だなどという話は一切なかった。そこには〈効率〉などという考え方は全く存在しなかったのである。

 いま内部川には、70歳以上のいわゆる老蘇年代の人が8人おり、他に障害を抱えている人が1人いる。この中で実際に介護を必要とする人はほんの数人にすぎないが、いずれみんなに介護が必要になることは間違いない。『ヤマギシズム社会の実態』には「死の瞬間を最大の極楽境にします」と書いてあるけれども、今の自分たちの実態がそれに見合うものであるかどうか、と考えたときに、これはもっと真剣に考えなければならないと思い立った。そこで、調正所に提案して、老蘇世話係、調正所、仲良し班窓口の三者と、老蘇から私も参加させてもらって研鑽会を開いた。

 研鑽会で何かがはっきりしたというわけではないが、世話する側と世話される側の関係が非常に近くなったことは間違いない。「最大の極楽境」というときの「極楽境」の「境」は、環境の「境」でもあるし、心境・境地の「境」でもあるのではないか、そして「極楽境にします」というときの「極楽境にする」主体は誰なのか、またそういう心境に最後の瞬間に立ち至ってから突然なれるものでないとすれば今をどう生きるべきなのか、こういうことをみんなで気軽に出し合って、大変面白かった。そして今後も月一回程度研鑽していこうということになった。

 介護に関する研鑽が、ともすれば介護者だけの研鑽になりがちであるが、老蘇や被介護者を加えることで中身が深まるのではないかと思った。

 

〈10月×日〉

 2年ぐらい前に春日山から始まった「村人テーマ」が、実顕地全体のテーマのようになってきた。各種の実顕地づくり研では、この毎月のテーマを中心に研鑽会が持たれているという。「村人テーマ」が、何を目的とし、どんないきさつで、どこの場で決められているのかはわからないが、1980年から20年間続いた「村人テーマ」が、2000年に突然中止され、今また復活するにはそれなりの理由があるに違いない。一度そのへんの事情を説明してもらえるといいのだが、と思っている。またテーマというものの性格がどういうものなのかもはっきりさせてもらいたい、とも思う。つまり、それが実顕地の進むべき方針として提起されているのか、それとも共に考えたい問題として提起されているものなのか、ということである。

 しかし一番よくわからないのは、実顕地研鑽部が出してくる「テーマ解説」だ。もしテーマというものが、みんなで考えたい問題提起として出されたものなら、みんなの間から出てきたさまざまな意見を取り上げて紹介し、さらに研鑽が深まるように仕向けることが重要になる。またもしテーマが実顕地の進路を示す指導方針というのであれば、研鑽部は指導部の別称ということになる。しかし、ヤマギシには指導者や特別人間はいないことになっているのだから、研鑽部が指導方針を出したり、村人の考え方や行動を方向づけることはあり得ないはずである。ところが、研鑽部のテーマ解説を読むと、ほとんどが考える方向を指し示すものになっている。これでは、2000年以前の研鑽部と全く同じことになってしまう。

 人は案外弱いもので、"上からの指示”や"集団の流れ”ができると、それとは違う意見は出しにくくなり、自由な研鑽の雰囲気は作れなくなる。そうなると、研鑽会が沈黙に打ち沈んだり、出席者が少なくなっていく。研鑽会が研鑽の場ではなくなる。しかし、本来研鑽会は「親愛・和合の社会気風を醸成し、何かしら、会の雰囲気そのものが楽しくて、寄りたくなるような機会」(「ヤマギシズム社会の実態」)であり、それを推進するのが研鑽部の本来の役割のはずであろう。

 

〈10月×日〉

 9月度のテーマ解説を読んでいて、不思議な感じになった。この解説は実顕地研鑽部の名前で出されているが、この研鑽部の構成員はみんなできちんと研鑽して、その結果をまとめて出しているのだろうか、それとも誰か一人の思いつきの作文なのだろうか、という疑問である。中身があまりにお粗末なのだ。

 そのテーマ解説は、ある人の研鑽会での発言を紹介したあと、次のような結論を導き出している。

「引き継ぐというのは、一般にいわれている、古い人が今までやってきて積み重ねたことを、新しい人に引き継ぐというのではなく、積み重ねた経験などがあったとしても、新しい人が新しいことをやることに対して、温かく見守り喜んでいられるということなのでしょう」

 これは、いったい何を言いたいのだろうか? 大体この文章は、日本語の意味からして不可思議きわまりない。ふつう「引き継ぐ」というのは、「誰か」から「誰か」が、「何か」を受け継ぐことであろう。そうでなければ、「引き継ぎ」の意味をなさない。「新しい人が新しいことをやることに対して、(古い人はただ)温かく見守り喜んで」いればいい、それが引き継ぐということだと言われて、これで誰が何を引き継いだのかわかる人がいるとすれば、不思議である。こんな不可解な日本語を、実顕地研鑽部という公的機関が出すことは恥ずべきことではないだろうか。

 むしろ、本当に言いたいことは、こんなことことかもしれない。

「もうお前ら年寄りの時代は終わった。余分な口出しはやめて、おとなしく引っ込んでいればいいのだ。マッカーサーもGHQを解任されたとき"老兵はただ消え去るのみ”と言ったじゃないか」

 この方が正直でわかりやすい。そして「古い人」のどんな考え方が時代遅れで、「新しい人」のどんなところが新しい時代を切り開く考え方なのか、それを具体的に出し合って研鑽に結び付ければ、そこから何かが生まれてくるかもしれない。一方的な切り捨てからは、何も生まれることはないだろう。

 ただ、「古い」「新しい」という線引きの基準はどこにあるのだろうか。年齢? もし年齢だとすれば何歳以上が古いのか? またもし参画年次だとすれば、何年以前の参画者が古い人なのか? ヤマギシでは老いてますます蘇るという意味で、年寄りを老蘇と呼んでいるが、これは既に死語になってしまったのだろうか? 確か山岸さんは、どこかで「80歳の青年もいれば、20歳の老人もいる」と書いている。これはおかしな考え方なのだろうか? 山岸さんは55年前に亡くなっているから、山岸さん自身を「古い人」と言いたいのかもしれないが……。

 研鑽を深めるためには、言葉とその中身をできるだけ正確に使わなければならない、と私は思っている。「古い」という形容詞を使えば、古臭くて使い物にならないような印象を与え、「新しい」と言えば、何か画期的な新機軸のように印象づけようとする、こういう表記法は実は何の意味も持ちえない。「進歩」「発展」「革命」、これらはすべて言葉、名辞にすぎず、何らその内実を示すものではない。問題はその言葉の意味するもの、指し示すものであり、その中身によってのみ人は考え、研鑽することができる。

 研鑽部は、まず言葉の正確な使い方から研鑽を進めてほしい。

 

〈10月×日〉

 昨日に続いて、古い・新しいということを考えている。

 青年期は、"青春”という言葉が示すように、春に例えられる。これからどんどん成長し、いかなるものにもなりうる無限の可能性を秘めているように見える。一方老年期は、成長が終わり、死の晩年が訪れる秋にも例えられる。

 自分の80年の人生を振り返ったとき、青年期(何歳から何歳までとはっきりはしないけれど)を過ぎるということは、自分の中の可能性を一つひとつ捨て去ることだったように思う。もっと正確に言えば、そんな可能性はなかったのだと、自己確認する(させられる)過程だったようにも思う。しかし、若いときはそんなことはない。どんな無茶と思われることでもできるし、夢に命を賭けることもできる。

革命は青年抜きに考えることはできない。

 では老人は、ただ消え去るだけの存在なのだろうか。秋に木の葉が色づき、山々が美しい紅葉に彩られるのは、葉に蓄えた栄養(炭水化物)を枝や幹に送り出し、来る年へと引き継いだ後の姿である。この引き継ぎが不十分であれば、翌年の実りは保証されない。これと同じことが人間の世界でも見られるのだろうか。

 若い人に無くて年寄りだけにあるものが一つだけある、と私は思っている。それは、失敗の経験である。失敗の経験に学ぶ者だけが、次の時代を切り開いていける。成功経験も大事であるが、失敗経験はもっと大事である。なぜなら、成功の経験はほとんど無きに等しいのに、失敗の経験はそれこそ数え切れぬほどあるからである。しかし、多くの場合、失敗は愚かなこと、恥ずべきこととして否定され、無視されてしまう。その結果、失敗の歴史は何回でも繰り返されることになる。

 

〈10月×日〉

 先日、ある実顕地のメンバーと話していて、気になることがあった。彼は「最近は村人テーマの〈実顕地一つ〉の資料で研鑽しているが、どうも意見が出しづらい」というのである。彼の言うには、何か〈こうすることが実顕地一つなのだ〉と決まったものがあって、それと違うことはなかなか言えない雰囲気なのだというのである。これは、私にも経験があるのでよくわかる。自分もそんな雰囲気に委縮したり、自分からそうした雰囲気づくりに貢献したりした苦い経験がある。しかし、もうとっくにそんな経験は卒業していなければならない。

 ここで考えなければならないと思うのは、〈実顕地一つ〉のテーマが意味することの中身である。つまり「実顕地は一つである」ということなのか、あるいは「実顕地は一つにならなければならない」ということなのか。もし、後者であるとすれば、今は一つでないから一つを目指していこうということになるし、前者であれば、いろいろ意見の違いはあっても一つの中の多様な見方であって、違いは豊かさを表すだけで対立にはならない。この「一つである」ことなのか、「一つになる」ことなのか、ということの違いは、決定的に大きい。

 そして私たちが目指したいのは「一つである」あり方である。「一つである」から何でも言える、何でも聞ける、「誰もが思った事を、思うがままに、修飾のない本心のままを、遠慮なく発言し、又は誰の発言や行為をも忌憚なく批判」(「ヤマギシズム社会の実態」)できる、そんな社会づくりである。

 言葉で言ってしまえばこんな簡単なことなのだが、実際にそうなっていかない原因はどこにあるのだろうか。恐らく、方向や事柄を一つにしようとする側にも、それに委縮したり反発する側にも、一つでないものが介在しているからではないだろうか。特に「正しいもの」「本当のもの」を自分(たち)の考えや行動の原理としている場合は、それを他に押し付ける危険が大きくなる。強制力を働かせることも起こりうる。そうして作られた流れや空気が、人を押し流してしまいかねない。

 いま大切なことは、「実顕地一つ」の研鑽を、「事柄の研鑽」から「あり方の研鑽」へと変えていくことなのではないだろうか。

 

〈10月×日〉

 前に、出席者のあいだに何らかの規制する力が働くと「研鑽会が研鑽の場でなくなる」と書いた。この「研鑽会」と「研鑽」との関係について、もう少し考えてみたい。

 ヤマギシには「研鑽会」と名前の付いた会合はたくさんあるけれども、単なる打ち合わせにすぎないこともあるし、雑談に終わることも少なくない。するとこれは、世間一般で行われている「ミーティング」や「打ち合わせ」とどこが違うのか。しかし漠然とではあれ、私たちは「研鑽」と「ミーティング」とは違うと思っている。しかも、「研鑽こそが生命線」とも口にしている。どこかに明確な違いがあるはずだが、それがはっきりしない。

 そうした疑問を数年前にある会合で口にしたら、榛名のYさんから「お前は昔からずっと同じことを言っている」と笑われたことがある。また、2000年問題に絡んで「なぜ大事な場面で研鑽が機能せずに対立になってしまったのか」と書いたところ、春日山のSさんから「実顕地メンバーの研鑽力はまだよちよち歩きの段階なのだ」と批判された。Sさんは自著『贈り合いの経済』の中の「吉本隆明氏との対話(12)」に、「いわばどこまでも自分の自由意思を曲げないための『研鑽力』が問われているわけだが、その日常化においてはいまだよちよち歩きの域を出ない」とも書いている。ただSさんは、いつ、どうしたら、よちよち歩きを脱して一人歩きできるようになるのかは明らかにしていない。

 自分を振り返れば、確かによちよち歩きもいいところだけれども、一体生活が始まって58年、会発足から数えれば63年にもなるヤマギシ会メンバーの研鑽力が、未だよちよち歩きの乳幼児段階にあるとすれば、これはもう異常事態というべきだし、乳幼児どころか回復不能な障害者だと決めつけられても仕方がない。

 確かに私たちは、日常的に研鑽会を開き、何事かを話し合っている。にもかかわらず、研鑽力がそれに伴っていない。これはどういうことなのか。もしかしたら、研鑽会を開いてはいるけれども研鑽はしていない、ということの積み重ねの結果ではないか。では、研鑽って何なのだ、という最初の疑問に戻ってしまう。話し合い、ミーティング、討論、ディスカッション、ディベート、打ち合わせ等々、さなざまな言い方はあるけれども、こうした話し合いと研鑽との違いはどこにあるのか。

 

〈10月×日〉

 毎月開いているある研鑽会で、よく「自分の聞きたいようにしか聞いていないからね」という言葉が出る。「相手がそう言った」という聞き方から「相手の言ったことを自分はそう聞いた」という聞き方への転換。自分の聞きたいように聞き、自分の見たいようにしか見ていない、そうでしかない自分への自覚、これは確かに大事なことではあるが、たいていの場合そこで終わっている。しかし、本当に大事なのはそこからなのではないか。

「何で自分はそう聞いたのか」

「そうとしか聞けない自分に何があるのか」

 こう問いつづけることで、自分の心のあり様を調べることができる。これが研鑽の最も大事なところではないか。

 研鑽についての説明で、よくこんなことが言われた。

「人の話をよく聞き、自分の意見をはっきり出し、そして本当はどうかと検べ合う」

 しかし、こんなことはヤマギシでなくともどこでもやっていることだ。ヤマギシ以上にシビアに調べ合っている企業はいくらでもあるだろう。だが、自分の内面を調べることはどこでも行われていない。もちろん、宗教的な心の修養として自己を見つめることは昔から行われてきた。しかし、幸福な社会づくりを目指して、対象を検べることが同時に自己を検べることであり、自己を検べることが同時に対象を 検べることにつながるような、終わりのない検べる生き方は他にはない。これこそが研鑽なのではないか。だから山岸さんは、研鑽生活の連続を〈ゴールインスタート〉と言ったのだと思う。

 どうも自分の実感を言葉でうまく言い表すことができない。要するに、一般に言われている「検討」とか「調べる」というのは、自分の外側に存在する対象を、自分の見方・考え方に基づいて論ずるのに対して、研鑽は対象を検べると同時に、自分の見方・考え方、さらにはその見方・考え方を下支えしている深層の心理までをも検べようとするものではないか。外へ向かう力と内へ向かう力が同時に働くことで研鑽が成り立つ。そう思う。

  

〈10月×日〉

 鶴見俊輔さんの『敗北力』を読む。その冒頭の詩稿にこういう言葉が出ている。

    憲法、それは私から遠い

    むしろ、自分からはなれず、

    私の根の中に、

    憲法とひびきあう何かをさがしあてなければ、

    私には憲法をささえることはできない

       (それをさがしあてたい) 

 これを読んでずしりと響くものがあった。確かに私は憲法改正には反対だし、9条を守りたいと思っている。しかし、その反対は頭の中に存在するにすぎない。だから自分から遠い。では、自分の「根の中にひびきあう何か」とは何だろう??

 鶴見さん晩年最後の著作となったこの本には、こういう言葉もある。

 「『知識』はね、『自分の中の態度』に根差していなければ、『思想』になりません」

 また、東大を始めとする大学人を批判して、こう書く。

 「大学に位置を得ると、その人は、インサイダー取引の文章を書いて、終わりまで書き続けるようになる。

 このことは、その人の書く論文の形に刻印を押す。

 こうした論文には、へその緒がない。自分自身、自分にとっての自分がない」

  今は亡き鶴見さんの思想を一貫して支えていたものは、「自分の中の根」であり、「自分の中の態度」「へその緒」であった。それを見い出し、確かめ、支え、深めることに思想の拠点を置いた。

 私は、研鑽とは何かとずっと考えてきたが、この鶴見さんの言葉に出会って、そうか研鑽とはへそで考え、へそを確かめることではないかと思った。

 

〈10月×日〉

 S・アレクシエーヴィチの『セカンドハンドの時代』を読む。ソヴィエト体制が崩壊した1991年以降のロシアに暮らす一般庶民の声と魂の膨大な記録である。前作の『チェルノブイリの祈り』と同じように、さまざまな立場に置かれた人々の声が集められ、混沌としたロシア社会のあり様を混沌としたままに浮かび上がらせている。600頁にも及ぶこの本の中身を、一言で言い表すことなどとうていできない。ただ、この本は、70年間のソビエト社会主義というものが何であり、崩壊後の20年間が何であったのか、そしてまたそれがこれからの世界に何をもたらすのかを考える材料を豊富に提供している。しかも、それを国家論や社会論としてではなく、政治や社会の変動に翻弄される一般庶民の生の声を通して伝えている。

 91年のソビエト体制の崩壊前後、私はテレビの前に釘付けになっていた。ゴルバチョフによるペレストロイカ、軍部の反乱、エリツインによる政権奪取、民主化、こうした一連の変動の結果は、大方の予想に反し、自由とは弱肉強食であり、国家財産・共有財産の奪い合いであり、一部の富裕層と大多数の貧困層を生み出すものにすぎなかったことを明らかにした。そして100年も前にドストエフスキーが『カラマーゾフ』の「大審問官」篇で語った、「人間の自由を支配するかわりに、おまえ(キリスト)はそれを増大させ、人間の魂の王国に、永久に自由という苦しみを背負わせてしまった」という詰問から逃れられないでいる。その結果、スターリンの代わりにプーチンという新たな大審問官を戴き、「強いロシア」を旗印とするその強権支配に、かなりの人々の支持が集まっている。

 しかし、これはロシアに限った話ではない。旧ソ連邦から独立した国々も同じ状態であるし、また何より中国がいま、自由の抑圧なしには国家の統一を維持できない苦しみの中にいる。一方のアメリカは、マネー資本主義の強風の中で貧富の極端な格差に苦しんでいる。

 とにかく、私たちは「思想もことばもすべてが他人のおさがり、だれかのお古のよう」な「セカンドハンド(使い古し)の時代」を生きている。なかなか希望を見い出せないし、かつての理想はすっかり色あせてしまった。新たな希望、新たな理想をどこに求めたらいいのか、この本は今を生きる私たち一人ひとりにこの問いを投げかけている。