広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎吉田光男『わくらばの記』(13)

わくらばの記 ごまめの戯言⑤

 〈9月×日〉

 喜一さんは、自分の葬儀について、なぜ親族に限る、つまり村人の参列を拒否するような遺言を残したのだろうか。偲ぶ会などで、自分の棺を前にしてあれこれ語ってほしくないという心境だったのかもしれないが、それがなぜなのか、その疑問がしばらく頭から離れなかった。そしてここからは私の妄想にすぎないのだが、喜一さんの中にヤマギシ養鶏についてのやり残した思い、無念の思いが潜んでいたのではないか、と思わされた。

 中西喜一さんという人は、農業養鶏の時代から山岸さんに技術係りとして嘱望されていた人である。動植物に対する感性が鋭く、研究心も旺盛である。実顕地の社会式養鶏が始まってからは、当然養鶏試験場の技術部門の中心となるべき人材であった。

 しかし、70年代に入り卵の供給が伸び始めると、試験場の役割は小さくなり、しまいには廃止されて、養鶏はすべて本庁養鶏部の管理するところになった。ヤマギシ養鶏は完成されたものとして、試験研究の必要性が認められなくなったのである。各実顕地養鶏部は、卵の増産だけに励むことになる。喜一さんは技術係りとはいえ、日常の作業は洗卵センターの責任者にすぎなかった。洗卵センターの職務内容については私の詳しく知るところではないが、飼育の技術者がやらなくとも、機械に詳しい人材であれば十分務まる職場であったろう。要するに、経営の重視が技術や研究の軽視へと導いたのである。

 このへんの動きについて年表を繰ってみると、75年9月に「実顕地経営研」が始まり、「経営的センスの養成」がテーマになった。そして翌76年3月には、参画申し込みを実顕地本庁に一本化することが決まる。それまで参画申し込みは中央調正機関と実顕地本庁の二か所で受け付けていたものを、実顕地本庁に一本化したのである。これは、即中央調正機関廃止の方向であり、これに伴って中央調正機関に属していた中央試験場も実顕地本庁の管理下に移ることになる。この時期は、74年7月の多摩供給所発足に伴い、供給活動が軌道に乗り始め、卵の増産が望まれて新たな実顕地の造成が急がれた時期でもあり、参画者の「経営的センス」の養成は喫緊のテーマでもあった。

 そしてこの頃からだったと思うが、日常の会話の中にも「経営」や「効率化」が言われるようになった。古いものを活かすという考えよりも、それを捨てて新しく買い替える方が効率的だという考え方である。私たちの多くも、できるだけ安く仕入れて、できるだけ高く売る、という市場経済の論理に次第に馴染んでいったように思う。こういうときに、金を食うばかりで儲けにならない試験研究のようなものが、軽視されていくのは必然的であったかもしれない。こうして、試験場は機能停止になり、新たにつくられた本庁養鶏部が全実顕地の養鶏所を管理することになった。

 しかし、本庁養鶏部は試験や技術面を代替する機関ではない。卵の需要に応じて、全国各実顕地の入雛計画を立てたり、餌の購入計画やその配合率を決めたりする実務機関である。

 こうした流れの中で、喜一さんを活かし活躍してもらう場はありえたであろうか。このへんについて、もう少し自分の妄想の範囲を広げて考えてみたいのだが、今日はこのぐらいにしておく。

 

〈9月×日〉

「養鶏書」を開くと、ヤマギシ養鶏は「(技術20+経営30)×精神50」と書いてある。これは恐らく誰でもが知っている公式であろう。しかし、目を凝らしてもう一度よく見ると、また違ったものが見えてくるかもしれない。私は再度読み返してみて、このヤマギシ養鶏の等式のカッコを開いてこう書き直してみた。

 (技術20+経営30)×精神50=(技術20×精神50)+(経営30×精神50)=ヤマギシ養鶏 =幸福

 つまりヤマギシ養鶏は、技術も経営も精神と掛け合わされていて、両者は絶対に切り離すことができないものとして位置づけられている。そしてまた、経営がいかに重要であっても、技術をゼロにして経営を50にすれば、それは既にヤマギシ養鶏ではなくなってしまうだろう。そのことについて、山岸さんは「社会式養鶏法発表会に寄せて」という文書にこう書いている。

 

 「技術を離れた山岸養鶏はなく、精神のない技術は山岸養鶏でなく、またヤマギシズム精神のない経営は山岸式経営ではない。山岸養鶏技術は、経営とヤマギシズム精神が組み合わさって初めて技術となる。即ち、精神や経営を度外視した山岸養鶏技術はない」(全集④196頁)

 

 この文書は、1961年4月16日に名古屋市の半僧坊で行われた「ヤマギシズム社会式養鶏法発表会」に送られた山岸さんのメッセージで、当初山岸さんも出席を予定していたが、体調不良のため急遽口述筆記されたもの。(なお、この半月後に山岸さんは亡くなる)

 ところで、社会式養鶏の飼育現場における技術は、どのように保証されるかといえば、それは試験場の試験研究によってなのである。そのことを山岸さんはこう語っている。

 

 「それぞれの実顕地が出来て、飼育専門の係は試験場へ問題を持ち寄り飼育専門研をやり、試験場ではその案を採り上げ、そこで試験、組み立てと、それをまた実顕地に適用する。……実顕地の方は、自分の考えで何かやりたいとの案が出たら、試験場へ持ち寄るので、自分ではやらず、試験場の出た案はそのままやる。そして試験場は誰も入れないで飼育(技術)専門の人でやる」(全集④155頁「ヤマギシズム社会式養鶏法について――名古屋での座談会記録から」)

 

 個々の農家を母体としていた農業養鶏時代の技術係と違って、社会式養鶏においては、技術は試験場で試験と組み立てがなされ、実顕地はそれを無条件で実施するものとなっている。したがって、経営重視、効率優先の考え方で試験場が無くなってしまえば、それは既にヤマギシ養鶏ではなくなっていく。

 ところで、実顕地とは「実際に顕す地」の意味であるが、何を顕すかと言えば、それは中央試験場(養鶏試験場はその産業部門の一つ)で試験研究されたヤマギシズムの考え方を実際に顕す地ということである。つまり実顕地は完成されたものでも独立したものでもなく、試験研究されたその時々の最先端をたえず実施することによって、ヤマギシズム社会へ、理想社会へと進む前進無固定の社会構成の一機関と構想されている。なお、もう一つ付け加えれば、これら試験場・実顕地の構成員が最も正しく研鑽生活を送れるようにするための仕組みが研鑽学校である。このように試験場、実顕地、研鑽学校の三つの機関が、ヤマギシズム社会構成の基本とされ、互いに自立しながら一体で運営されることとなっている。(全集④396頁「ヤマギシズム実践諸機関について」)

 

 しかし、実顕地急成長時代の経営重視の中で、試験場は無くなり、研鑽学校も実顕地に吸収され、ヤマギシズム社会構成の3機関が、実顕地一つに統合されてしまった。このことをどう考えたらいいのだろうか。今まであまり問題にもされてこなかったことだが、喜一さんの葬儀のことを考えているうちに、このことに突き当たった。ぜひみんなで考えてみたいと思った。

 

〈9月×日〉

 私が参画したばかりの頃、初めて養鶏書を見て「老鶏は若雌(若々しく)のような、若雌は老鶏(牛のような)の如きタイプを常に保たすこと」という言葉に少し違和感を覚えた。何で老鶏は「若鶏」の如くと言わずに「若雌」と言うのだろう、と疑問に思ったのである。しかし、答えは簡単なことだった。山岸さんは養鶏書の中で、「農業養鶏は強健でよく稼ぐ交配種の雌のみを飼います」と書き、他のところでも「食卵に雄性は不要」と書いている。つまりヤマギシ養鶏は、採卵鶏においてはもともと雌のみを飼うことになっていたのである。では、なぜ今のように雄を入れて有精卵にしたかと言えば、1971(S46)年に安全食糧開発グループ代表の岡田米雄氏から「有精卵を作ってほしい」と要請され、それに応えて始めた有精卵が岡田氏の四つ葉グループに歓迎されたばかりでなく、2年後の多摩供給所発足のきっかけになったからである。

 長い間、ヤマギシ養鶏は有精卵と信じ込んでいたが、調べてみたらそんなことはなく、外からの要請に応じて"とりあえず”有精卵にした、というにすぎない。今は有精卵がヤマギシ養鶏の特徴のように考えられているが、雄と雌がいることがヤマギシ養鶏の本質を表わすものではなく、本質はもっと別のところにあるのではないかと考えられる。同じように、「これこそがヤマギシ」と信じ込んでいることの中にも、私たちの勝手な思い込みによる誤解が含まれているかもしれない。

 この‟とりあえずそうした”ということでいえば、喜一さんからこんな話を聞いたことがある。

 私が「養鶏書では『奥行4間の鶏舎で、細長い3間先まで1週間の雛を走らす』と書いてあるけれども、社会式では生まれてすぐの雛を中雛寝枠に放して狭いガードで囲うのはなぜか」と聞いたのに対して、

「いや、あれは小羽数の堆肥熱育雛と違って、大羽数に適した育雛設備がなかったので、とりあえず中雛寝枠を使おうということで、あれで良いというわけではないんだ」

 実は、中雛寝枠は研究課題の一つだったということである。それが今では育雛設備の決定版として、何の疑いもなく使いつづけられている。

 養鶏に関わったことのない人のために、山岸さんが農業養鶏について書いた文書の一部を引用しておく。

 

「奥行4間(7.2メートル)の鶏舎で、細長い3間〈5.4メートル)先まで1週間の雛を走らすのも、40日雛を成鶏収容密度の広濶な成鶏舎へ放つのも、脚の丈夫な、胸肉の張った、餌負け、暑さ負け、産み疲れを知らぬ、途中落伍のない、環境に打ち勝っていく、成鶏になっての稼ぎ高の多い鶏を造るのが目的で、3間先に水を置き、乾燥飼料を食べさせては水を呑みに走り、寒くなれば温室へと、繰り返し、真っ暗の寒夜も3間先までお百度マラソン、これで丈夫にならねば不思議でしょう」(全集④「真理追求から発した養鶏」『愛農養鶏』1954年5月号)

 

 熱室・温室・冷室と三段階に分けられた育雛枠で40日まで過ごした雛は、40日経つと育雛枠が取り払われて、広い鶏舎いっぱいに放たれる。このとき用いられるのが止り木と中雛寝枠である。この中雛寝枠が、今の実顕地では初生雛から用いられ、周囲をガードで囲っている。囲いは雛の成長につれて広げられるとはいえ、3間先まで飛んでいけるような広さはない。

 このように、今の中雛寝枠方式は研究課題として残されたものであり、当然それは試験場で研究すべきものであった。

 

〈9月×日〉

 1980年代のことだったと思うが、配置で首都圏実顕地の大田原に行った。そこには、実顕地育ちのSK君がいた。わりと親しい関係だったのでよく話をしたが、S君は当時の本庁の方針に何かと異を唱えていて、私としては何とか全体の流れに沿って一つになれないかと考えていた。

 当時の養鶏部では、冬場は鶏舎をビニールで囲うことになっていて、大田原でもその作業を始めようとしていた。ところがS君は、それに疑問を投げかけた。

「冬の寒さ対策としてビニールをかけるというが、それによって空気の流通が悪くなり、鶏の呼吸器系の病気が出やすくなるのではないか。いまのやり方は、それで病気が出れば薬をたくさん使って直そうとする。しかし、それって山岸養鶏に逆行するのではないか」

 そうか、確かに一理あるなと思ったものの、その頃の私は本庁の方針こそ絶対と思っていたので、S君の考えを無視してしまった。しかし、その後養鶏書を調べたりすると、S君の考えの方が正しいことがわかる。なにしろ山岸さんは「水と空気と太陽」といった自然の恵みを他の何物よりも大切としており、空気の流通を止めるような飼育が認められるはずがない。例えば、山岸さんはこういう文書を書き残している。

「薬物偏重医学者は少し反省しなければならないと思います。……稲作等も薬を使い過ぎますが、全て人間にしても、鶏の場合でも、病気の発生に好条件を与えておき、医学で糊塗し、または治療手段に訴えるよりも、先決問題はそうした原因をつくらないことで、それには病虫害の起因、特性、生態を深く究明すると共に、それ等を受け付けない態勢を整えるにあります」(全集①303頁)

 

 ほかにもS君は、「鶏舎の通路を全部コンクリートで固めてしまったが、夏場は太陽光の輻射熱で鶏舎内の温度が高まり、鶏に影響しているのではないか」とか、「オールアウトのあと、鶏糞をきれいに取り出して水洗いと消毒までしているが、昔は古い鶏糞の上に直接雛を放していた。病原菌はどこにでもいる。菌を無くすことより菌に負けない鶏を育てることがヤマギシ養鶏の根本ではないか」と語っていた。当時は聞き流してしまったとはいえ、いずれも私の心に残った言葉である。

 しかし、これは何が正しいかという問題もあるけれども、それよりも飼育に関する試験研究がきちんと行われず、経営効率優先の考え方から、思い付きで事が進められたことがより大きな問題なのである。同じようなことで、一時雛のデビークが行われたことがある。入雛間もない雛の嘴の先端を切り取ってしまうのだ(ということは、鶏は必ずつつき合いをするものという前提に立っている)。確かに、成鶏になってからデビークするより遥かに効率的ではある。しかし、雛にものすごいストレスを与えるだけでなく、成長するにつれて嘴がおかしな具合に伸びて、上下不揃いのカケスのような鶏が続出して、すぐ取りやめになった。

 このように、試験場が無くなり本庁養鶏部に一本化されることによって、経営だけが重要視され、飼育に関する技術的な検討、研究、試験が行われなくなり、飼育者は日常作業を通じて感じた疑問や感想を深める機会が無くなってしまった。それらについては、明日また書いてみることにする。 

 

〈9月×日〉

 私の参画したての頃は、鶏舎の離巣檻や産卵箱は下(鶏糞の上)に置かれていた。今のような宙づりの形ではなかった。しばらくして今の宙づりの方式になり、作業はしやすくなった。ところが、産卵箱はともかく、離巣檻については「養鶏書」に次のような記述がある。

「離巣檻は鶏舎の一番明るい一隅に、A、B2個の小室を作り、A方に3日間巣鶏をいれ、次の3日間はBの方にいれ、……特に注意すべきは、檻内の鶏と檻外鶏舎内の鶏とが、見忘れないよう給餌器を内外両方から食べられるようにし……」(全集①158頁)

  この「見忘れないように」という記述にはびっくりした。鶏の本性を知り尽くした山岸さんの細かな配慮が、ここまで及んでいるのか、という驚きである。とにかく、物忘れの典型に鶏頭があげられるように、鶏はしばらく別飼いにすればすぐ相手を見忘れる。再び一緒にすると、すぐつつき合いを始める。それを防ぐために、内外双方から餌を食べられるような構造にしてある、ということなのだ。

 そこから考えると、羽数調正という飼育の日常作業がどうなんだろう、という疑問が生じてきた。餌量を全連一定にするために、羽数調正をごく当たり前に行ってきて、疑問に思うこともなかったが、住み慣れた部屋から違った部屋に移動させられる鶏にとっては、相当のストレスになっているのではないだろうか。人間にとって都合のよい(つまり人間よりの)飼育方法が、飼育される鶏にとってどうかという視点が、これまでほとんどなかったのである。

 また、全連餌量を一定にするという方法が、理に適っているかどうか。養鶏書には、「給餌法」としてこう書かれている。

「(本養鶏法では)1日1回空腹、1回満腹となるよう切餌とし、毎日、日没2時間ほど前に、1日分全量を与えます。分量は、翌日正午までは餌箱にいくらか残っているが、日没2時間前の給餌の時には、すっかり食い尽くしているのを適量とし、正午までに食い尽くし、または給餌の時余っている場合は、給餌量をそれぞれ適当に加減します」(全集①151頁)

 

 鶏が生き物である以上、同じ羽数であっても、その日の天候や気温、湿度、あるいは健康状態などによって、餌の食い方が違ってくるのは当然である。もちろん養鶏書は、小羽数の農業養鶏用に書かれたものであるが、私の参画したころの養鶏部でも、毎日きちんと餌見と餌量調正を行っているところがあった。ど素人の私には、ちゃんとした観察や対応ができたわけではないが、何かしら身につくものがあったように感じられる。しかし、いつしか鶏を見るのではなく、羽数表の数字を見てそれを配合に伝えるだけになってしまった。

「鶏のことは鶏に聞く」という山岸さんの考え方からすると、これは異常だ。成鶏管理が羽数表管理になり、飼育者はただ餌を餌箱に入れ、卵を採り出すだけの作業者に成り下がってしまった。だから、飼育者から日々の飼育作業を通しての感想や喜びや疑問が提出されることはほとんどなくなっている。当然、試験場に問題を持ち寄って、試験研究を委嘱する必要もなくなる。試験場を無くし、実顕地一本の体制を敷いたことが養鶏の飼育現場を歪めてしまったのではないか、と思うのである。

 ただ、技術的な疑問や考えを個人レベルで解決しようと思っても、それは思い付きの範囲を越えるものではないし、かえって混乱を招くだけだと思う。今それだけの人材がそろうかどうかは別として、試験研究に関心のある人が3人以上寄って、実顕地から一切の制約を受けない飼育試験に取り掛かれるとしたら、試験場再興への足掛かりが得られるのではないかと思ったりする。これには、実顕地のバックアップが不可欠であるが……。

 

〈9月×日〉

 喜一さんの葬儀のことから、養鶏の飼育についてあれこれ考えてきたが、一番強く思ったことは、経営の合理化・効率化が飼育管理の合理化・効率化になって、作業はしやすくなったが、鶏にとってはストレスを高める方向に向かってしまったのではないか、ということである。

 山岸さんは、こういう言葉を残している。

「心が豊かな鶏は豊かな稔りを積みます。鶏にも豊かな生活を。」そしてまた、

「大きな胃袋の雛が多く食べても、胃袋の小さい雛は決してそれを咎めませんし、消化器の働きの鈍い雛が負けまいと無理に食べて、胃腸障害を起こしたりしません。これが『ヤマギシズム』から発した養鶏法で、山岸式養鶏会員の鶏に1羽の羽衣食われ鶏も、同胞相食む尻ツツキ鶏もなく、健康で元気に満ち充ちながら、物静かで、競い合いをしませんことと……」(全集①280頁「稲と鶏」)

 また別のところでは、こうも書いている。

「……快適な環境に、物静かで、心理的にも豊かさに充ちた、競合の無い、愛善社会が、鶏の日常に実現していることが見えるのです」(同上295頁)

 

 ヤマギシ養鶏においては、「愛善社会が鶏の日常に実現している」と山岸さんは言っている。快適な環境の中で、物静かで、心理的にも豊かさに充ちた、競合のない、愛善社会――確かに実顕地の鶏たちは静かで落ち着いている、臭気も少ない。しかし、よく鶏糞は固まるし、ツツキが出て血を流し、落ちる鶏も出る。これはどうしてなのか。「1羽の羽衣食われ鶏も、同胞相食む尻ツツキ鶏も」いないはずのヤマギシ鶏舎で、なぜそうした鶏が発生してしまうのか。飼育者にとっては、大きなテーマのはずである。これを「鶏種が変わったから」などの一言(言い訳)で済ますことなどできない。(なお、ここで"愛善社会”という言葉を用いているのは、この文書が愛善みずほ会(大本教)の機関紙に掲載されたためで、養鶏書では幸福社会と記している)

 韓国配置のころ、喜一さんにツツキについて相談したことがあるが、喜一さんは「つつかれた鶏を取り除くよりも、最初につつく鶏を取り除いてみてはどうか」と言ってくれた。なるほど、いじめられたものを見つけるのではなく、いじめの張本人を見つけて手を打つ、その方が本当かもしれない。しかし、私の観察力不足でそうした鶏を見つけることはうまくできなかった。後になって考えると、原因はもっと別のところにあるように思えてきた。それは、私ら飼育者が鶏を見ることなく、羽数表を見て鶏を管理するという飼育方法である。山岸さんは「百万羽科学工業養鶏」構想の説明会で、こういう話をしている。

「既に"一羽の鶏が完全に飼えれば、百万羽の鶏も同じように飼えて当然だ”と、こういう理論は成り立っておったわけなんです。一羽の鶏が飼えないのに、十羽の鶏も飼えない、千羽の鶏も飼えない、百万羽の鶏なおさらということなんです」(全集③14頁)

「一羽の鶏が完全に飼えれば」という言葉は、飼育者にはかなり強烈に突き刺さってくる。とうてい完全に飼うことのできない自分であることを自覚すれば、鶏舎の前に謙虚に立たざるをえない。またそれは個々人の力では不可能であることに思い至れば、試験場を盛り立て、共に進もうとするだろう。

 この「一羽の鶏」という言葉は、「一本の柿の木」「一本の桃の木」とも「一匹の豚」「一頭の牛」とも読み替えることができる。そしてこれを「一人の子ども」と置き換えた場合にどうだろうか。一人の子どもも見ることのできない世話係りが、大勢の子どもを世話したらどういうことになるか。「子どもとはこういうもの」という画一化した見方によって、子ども一人ひとりの違いも秘められた可能性も無視することになる。

 山岸さんは「養鶏書は幸福の書だ」と書いているが、まさにその通りの奥深さであることを改めて感じさせられた。

 

〈9月×日)

 喜一さんの葬儀のことから、養鶏書を読み返す作業を繰り返して、少し疲れてしまった。山岸さんは「本書は……天才的知能を持つ非凡な人でも、30回以上熟読しなければ判らないでしょう」と書いているが、凡庸な上にもなお凡庸な知能しか持ち合わせていない自分には、なかなか理解できないとしても当然であろうと思われる。しかも、まだ数回しか読んでいないのだから尚更である。そして序文の最後に、次のように書いて警告を発していることが心に響いてくる。

 

「本養鶏法は、唯今すぐに間に合いそうな技術とか方法に関する部分を、切り離して実施するなれば、必ずや詰りと不幸が、必然的に見舞う様に仕組まれてあるのですから、決して拾い読みしたり、走り読みしないで、全巻初めの序文から末尾の結びの文まで一字も余さず、繰り返しくり返し熟読し理解して頂くこと、そして必ず、研鑽会に於て輪読会を開き、お互同志が、徹底的に研鑽し合うべきことを、銘記して頂きたいのであります」(全集①17頁)

 

  昨日は、午前中に息子と一緒にS夫妻来てくれた。また、午後からはE夫妻の訪問を受けた。そのいずれでも、喜一さんの葬儀のことが話題になった。私の思うところも出してみたり、みんなの話も聞いてみて、推測は推測にすぎないけれども、これをきっかけにヤマギシの養鶏や養豚、養牛のことや、更にもう一つ突っ込んで実顕地のあり方が、考えられていったらいいなと思った。みんな実顕地の現状に危惧の念を抱いているのだし、口には出さないけれどもそういう思いを抱いている人は、かなりたくさんいるように感じた。 

 

〈9月×日〉

 小林雅一氏の『ゲノム編集とは何か』(講談社)を読む。非常にわかりやすく現代の遺伝子工学の現状を解説している。従来の「遺伝子組み換え技術」が一万分の一、百万分の一の確率でしか成功しなかった遺伝子の組み換えを、「クリスパー」と呼ばれるゲノム編集の技術を用いれば、DNAを構成する無限の文字列をピンポイントで書き換えることができる、というのである。そのため、組み換えに要する期間とコストを劇的に圧縮することができるらしい。遺伝子工学や生命科学の分野では、今その応用・実現化に向けて熾烈な競争が繰り広げられているという。

 科学というものが、一方において人類の幸福と福祉に貢献してきたことは間違いないが、他方においてとんでもない不幸の原因にもなってきたことは疑いようもない。この「クリスパー」の技術を使って、今は不治の病とみなされているガンやパーキンソン病などを根治できるかもしれないが、これを「人間の改良」に使おうとする動きも出てきている。アメリカのジョージ・チャーチ博士(ハーバード大学医学大学院教授)は「ちょうど美容整形をするような気持ちで、自分の遺伝子を改良する時代がくる」と語っているそうだ。これをもう一歩進めて、DNAを全部人工的に作り上げる「ヒト・ゲノム設計計画」というものまで始まっている。ここまでくると、どこまでが人間でどこからがロボットなのかわからなくなる。しかし、これが人類にとって幸せと言える事態なのだろうか。

 

〈9月×日〉

 科学というものを戦争との関連でとらえると、その二面性がよりはっきりする。NHKの「映像の世紀プレミアム第2集」を見て、その感をいっそう強くした。この映像は、20世紀初めからの科学者の戦争への関わりを歴史的に映し出しているが、最初の登場人物がアルフレッド・ノーベルである。彼は、ダイナマイトの発明で莫大な財産を築き、"死の商人”と言われた。その彼が罪滅ぼしかどうか、遺産を基にノーベル賞を創設したが、その際こういう言葉を残している。

「この世の中に悪用されないものはない。科学技術の進歩は常に危険と背中合わせだ。それを乗り越えて初めて人類に貢献できるのだ」

 第一次大戦前後から、兵器の発明・改良が相次いだが、その際に科学者が語る言葉は決まっている。

「早く戦争を終わらせるために」。あるいは、

「犠牲者をできるだけ出さないために」

 こうして、ドイツのガトリングは、それ一丁で大部隊を撃滅できる機関銃を発明し、ライト兄弟は飛行機の軍事利用に努力を重ねた。またドイツのハーバーは、空気中から窒素を取り出す方法を発明して、農産物の増産に寄与したが、同じ技術から毒ガスを作り出し、第一次大戦で大量に使用した。毒ガスは後にユダヤ人虐殺に用いられたし、今なお研究が続けられている。ハーバーは、妻クララの反対を押し切って毒ガスを開発するにあたり「毒ガスは戦争を早く止めさせ、ドイツの兵士を救うのだ」と語っていた。

 この「戦争を早く終わらせ、犠牲者を少なくするため」というキャッチフレーズは、戦時下の科学者たち誰もが異口同音に発した言葉である。アインシュタインもそうだし、原爆開発にあたったオッペンハイマーも、V2ロケットから宇宙開発まで手掛けたフォン・ブラウンも、そう語った。アメリカ国民の多くが、今なお広島・長崎に対して同じ考えを持ちつづけている。

 ただ、この中でアインシュタインだけは、ルーズベルトに原爆開発を勧めたことを生涯最大の失敗と認め、後の人生を核廃絶運動に捧げた。そのアインシュタインが、フロイトに書いた手紙が、映像の中で紹介されている。

「人類を戦争の脅威から救う術はあるのだろうか」

 それに対してフロイトはこう返事を書いた。

「歴史を見ると、人間の心の中にとてつもなく強い破壊欲望があることがわかる。この破壊欲望はどの生物の中にも存在しており、それは生命のない物質に引き戻そうとしている。人間から攻撃的欲望を取り除くなどできそうにありません」

 ウ~ン、フロイトはそう言ったか。山岸さんは人間の知能によって戦争は無くすことができる、と言った。しかし、太古以来、人類が戦争を免れたことなどあったのだろうか。とにかく、書かれた歴史(記録された歴史)は、すべて戦争の歴史でもある。もし万一にも、人類が戦争を免れることができたにしても、科学は人類に役立つと同時に破壊的作用を及ぼすことを避けることはできないだろう。科学、あるいは人間の知能の持つ、相反する二面性を認めたうえで、私たちは自分のできるところから少しでも平和な世界が広がるよう努力する以外にないのか、と思ったりする。

 

〈9月×日〉

 NHKスペシャル「縮小日本の衝撃」を見る。

 地方の諸都市で人口減少が続いていることは知っていたが、東京都区内でも減少が始まっているとの報道には驚いた。地方からの人口流出で、都市の人口は増え続けているものとばかり思っていたが、すでに頭打ちが始まっているというのだ。とにかく高齢化が進み、出生率は1・4と伸び悩んでいる。

 夕張市はすでに財政破綻し、いまなお再建のメドはたっていないし、破綻寸前の市町村は増え続けている。幾つかの市では、住民による自主的再建への道が模索されているらしいが、これといった成功例は見出されていない。

 こうした現実の中で、この国の若者たちはどうしているのだろうか。朝日新聞に紹介された日本財団の調査によると、20歳以上の日本人の4人に一人が本気で自殺を考えたことがあるという。なかでも20~30代の若者世代では、男女とも30パーセントを越えている、という結果が出ている。

 とにかく今日本の社会からは先行きの見通しが見えず、若者は希望を持てない環境に置かれている。こういう中で、ヤマギシは何を提示できるのだろうか。少なくとも、孤立化して内向きに閉じこもっている若者たちに、共に話し合える連帯への可能性を示すことはできないだろうか。学園出身者、あるいは楽園村経験者の中にも、いま苦しんでいる人たちがいるかもしれない。こういう状況を見ると、何か時代から問いかけられている気がして仕方がない。

 

〈9月×日〉

 人の話を聞くのは、本当に難しい。何らかの予見をもって自分の聞きたたいように聞いていることが多いからだ。一方、自分が話をする場合でも、自分の思っていることを全部話しているかといえば、そんなことはない。ごく一部しか話していないし、場合によっては思いとは違うことを話すこともある。人と人との間で繰り返される会話というものが、いかに危ういコミュニケーション通路であるかがわかる。しかし、この危ういコミュニケーション通路以外に、人と人とが心を通じ合わせる手段はない。とすれば、人の話を聞くにはどうあったらいいのかは最大のテーマであろう。

 最近、沢木耕太郎氏の『流星ひとつ』を読んだ。これは、彗星のように現われ、彗星のように消えていった稀有な歌い手、藤圭子に対する、全編インタビューで構成されたドキュメントである。私は、歌についての感覚が乏しいから、強烈に記憶に残っている歌は少ないが、藤圭子のあのサビのきいた「夢は夜開く」だけは、耳奥にずっと消えずに残っていた。 

   「15、16、17と 私の人生暗かった

    過去はどんなに暗くとも 夢は夜ひらく」

 沢木さんのこのインタビューは、藤圭子が歌手をやめてアメリカに渡る30年前に行われたものであるが、彼女が再び芸能界に復帰することを慮って、発表を封印していたものであった。しかし、彼女が自殺し、娘の宇多田ヒカルが「母はずっと精神を病んでいた」というコメントを出したのを見て、藤圭子にはこんな精神の輝きがあったことを知ってほしいとの思いから、この本を世に出すことにした、と沢木さんは後書きに書いている。

 いや、私の書きたいのは、こうした出版事情ではない。このインタビューの見事さを言いたいのだ。人の話を聞くとはどういうことかが、よく示されている。相手の話を聞いて、それをその通りに書くだけなら誰でもできる。ある種の予見を持って、こちらの意図したように相手の言葉を引き出すこともできないことではない。しかし、相手の心の奥底に秘かにしまいこまれているもの、あるいは思ってもいないもの、意識下、無意識にあるものが、思わずポロッと出てきてしまうような聞き方というものは、なかなかできるものではない。鋭い質問、時には相手の心にメスを入れるような問いかけ、それでいて相手に寄り添い誠意を失わない態度、こうした姿勢があって初めてインタビューが成立する。

 聞くというと、ただ黙って相手の話を聞くことだと思われがちだが、これではとうてい人の心を聞くことはできないだろう