わくらばの記 ごまめの戯言④
〈8月×日〉
特講の歴史を自分なりの見方でまとめてみたが、夜中に目が覚めたりすると、それに関連したさまざまな出来事が思い出されてくる。そんなことをポツリポツリと書いてみることにする。
あれは私がまだ韓国にいてビザの切り替えで帰国していた時のことだから、90年代の初めの頃だったと思う。久しぶりに春日のヤマギシ会本部を訪ねた。最近の拡大の進め方について聞きたいと思っていたからだ。
事務局に声をかけると、見知らぬ中年の女性が出てきて応対してくれた。「最近の拡大のやり方は?」と尋ねると、マニュアル通りなのかどうか、いきなり私に次々と質問を投げかけてきた。いわゆる“想定問答”というものなのだろう。これには度肝を抜かれた。そうか、こんなやり方で特講拡大をやっているのか。そう言えば、子育て講座も、楽園村勧めも、すべてマニュアル化していることを改めて思った。その時は違和感は残ったものの、それ以上深く考えることもなかったが、いま思えばこれは大きな問題である。
ファミレスなどに入ると、メニューを聞いた後、必ず「○○と○○ですね」「以上でよろしいでしょうか?」と聞かれる。「しばらくお待ちください」ではなく、「以上でよろしいでしょうか?」である。以上だけではいけないのだろうか、と一瞬考えてしまう。後ろめたい気持ちを押さえて「以上でいいです」と言うわけだが、最初の頃は何か嫌な気分が残ったりした。
それはともかく、山岸会の中でこのマニュアル化が進められたのは、マクドナルド方式が日本に定着したのと軌を一にしている。要するに、対象とする相手をすべて同一の人間、大衆という砂粒の一つ、悪く言えば木偶人形のように見做すことなのである。ここには「人間とはこういうもの」とする、すごく安易な人間観が潜んでいる。人間一人ひとりの違いが見えてこない。またここには、合理化、効率化の思想が含まれていて、テーブル回転率を上げるように、拡大回転率を上げようとしたのであろう。そのためには、誰でもができる、誰がやってもいい、というマニュアル化が最大の武器となった。
当時の私は、全くそのことに気づかなかったし、自ら進んでそのマニュアルを推し進めてもいた。第一、特講の進め方がそのようなものであった。もちろん、特講は人間の思考を閉じ込めている観念の壁を突き崩すために仕組まれたものであるから、そこにはテーマもあれば、それを出す順番もほぼ決まっている。また特講の目標として、5つの項目が垂れ幕に書かれて、最初から正面の壁に掲げられている。しかし、これはマニュアルではない。だが、当時の私と私たちの多くは、「係りなんて誰がやってもいい」と口にし、特講生一人ひとりと向き合うことをしてこなかった。
「腹が立たなくなった」
「かばんは誰のものでもない」
「自然全人一体が本当の世界」等々。
大半の参加者がこう口にすれば、それで特講は大成功と思っていた。鶴見俊輔さんの言う「一丁上がり」である。しかしこれで、最も大事な研鑽力、どこまでも真実を検べていく姿勢が養われたかどうか。恐らく"わかってしまった人”ばかりをつくってきたのではないか。わかってしまったら、もうその先は検べることはしない。研鑽停止の状態になる。
人は一人ひとり違う。係りはその一人ひとりと向き合い、共に考える姿勢が必要なのである。つまり、参加者から学ぶ姿勢である。それによって世話係りは、もたらす者であると同時に、もたらされる者であることができる。
特講での手痛い経験が幾つかある。確か70年代の後半のことだったと思うが、参加者には京大霊長類研究所の鈴木さん(今は教授か助教授だと思うが、当時は助手)ら比較的知的レベルの高い人が多かった。後に参画して豊里・多摩で供給活動などをしていた谷野夫妻も参加者の一員であった。私は、その時は事務局で窓口をやっていたが、3日目か4日目に突然参加者全員が出てきて、垂れ幕を焼く事件が起きた。そのあと、「責任者を出せ」ということで、私も被告席に坐らされた。
要するに「こんな垂れ幕のようなものがあるから、特講が機械的でおかしなものになってしまうのだ」という主張である。もうその時の対応のやり取りについては忘れてしまったが、何とか説得して特講を最後まで続けることはできた。しかし、内容は特講とは言い難い気の抜けたものでしかなかった。世話係りはと言えば、みなシュンと落ち込んでしまって進めることができず、他のものが変わって進めた。
これと似たような事件をもう一度経験しているが、要するに「誰でもができる」というマニュアル化された進め方が、いかに特講の真目的を歪めてしまうかを、この段階で気づくべきであったろう。
〈8月×日〉
これも70年代か80年代のことだったと思うが、安井登一さんが夜中にヤマギシ会本部にやってきた。話をしているうちに、事務局東側の大会場から世話係りの怒鳴り声が聞こえてきた。
「何でや?」
「お前ら、アホか」
畳を叩く音まで聞こえる。安井さんは「これは、ちょっとひどいね」とつぶやき、「特講は知的革命なんだよ。暴力革命とは違う」と話した後、帰っていった。恐らく安井さんは、最近の特講の進め方を心配して、様子を見に来たのだろう。しかしその時の私には、安井さんの言うことがよく理解できなかったし、どこをどう考えたらいいのかもわからなかった。
また、亀井のおばちゃんからは、こんなことを言われたことがある。
「どうも最近の特講は理屈ばかりで、身についたものがないんじゃないか。私らの時は一体がどうのこうのといったことはさっぱりわからんじゃったけど、食卓に一人だけパンが足りんと聞けば、あちこちからパンが集まってくる。また帰りの旅費が足りんと聞けば、財布ごとお金が集まるといったことがあったよ」
同じような批判を、中身は忘れたが奥村明義さんからも受けたことがある。しかし、そうした批判を受け止めて、研鑽につなげるということは、当時の私たちにはなかった。自分たちの今のやり方でいいのだ、とする固定した考え方に捉われていたからである。批判がすべて正しいというわけではなく、また自分たちがすべて間違っていたというのでもない。しかし、誤り多い人間の考えで「これが本当だ」といかに主張したところで、そうかどうかはわからない。だからこそ、検べる、研鑽するのであり、この研鑽力を身に付ける仕組みが特講なのである。世話係り団にこの研鑽する姿勢がない以上、特講参加者にそれを求めても無理、というものであったろう。
これは、誰だったか名前を思い出せないが、古い参画者から聞いた話が耳に残っている。初期の、まだお寺を借りて特講をやっていたころ、ちょうど怒り研の最中に、別室で休んでいた山岸さんが風のようにスーッと入ってきて、「何でや?」と怒鳴り声を上げている係りに、「それで、あなたはどうなの?」と問いかけたというのである。これには係りも驚いたらしい。いっぺんにシュンとなって、それまでの居丈高の態度から、「なぜなんだろう?」と共に考える姿勢に変わったというのである。
正解を求めたがる姿勢は、特講だけでなく研鑽学校もほぼ同じようなものであった。最近のことは知らないが、私の経験した研鑽学校は、すべて‟正しい答え”を覚えるように進められていた。だから、終わって一週間程度はみな溌剌としているが、すぐに元の木阿弥になってしまう。研鑽する力がほとんど身についていないのだ。
とかく人間は、正しい答えを求めたがる。第一自分がそうだ。正しい答えを得れば、それだけで自分が正しい立場に立てたように安心する。安心するためにこそ、正しい答えを欲しがる。易しく、簡単に、スピーディーに。しかし、‟正しい”物や事など、観念のつくりあげた幻影にすぎない。研学後一週間で賞味期限が切れるのも当然なのである。
〈8月×日〉
1974(昭和49)年の何月だったか、埼玉の団地に渡辺操さんが訪ねてきてくれたことがある。2回目の研鑽学校で参画申請はしたものの、子どもの問題もあって最後の踏ん切りがつかなかった時である。土産に「青梅の卵です」と言って、新聞紙にくるんだ10個ほどの卵を置いていった。その卵は、見るからに光り輝いていて、衝撃的な感動を受けた。「これはすごい」と思わずうなってしまった。
「やはりヤマギシは本物かもしれない」
参画への最後の後押しをしてくれたものの一つが、この青梅の卵であった。
今年の4月、入院中の病院に、多摩のTKさんが見舞いに来てくれた。いろいろ話しているうちに、卵の話になった。彼女はこんな話をしてくれた。
2~3年前までよく内部川から養鶏部の人に来てもらって、卵の懇談会を開いていたが、ある時から活用者が怒ってしまい、「もうこんなのだったら、懇談会などやる必要がない」と言って開かれなくなった、というのである。
「こんなのってどんなこと?」
「最近卵の質が悪いが、どうしたのか、という質問に対して、『鶏種が変わったので』と答えたのよ。鶏種が悪けりゃ変えればいいし、肝腎なことを鶏のせいにするのだったら、懇談会などやる意味がないというわけ」
「鶏種が変わったので」という答え方は、私も聞いたことがある。要するに、活用者が一番聞きたいことをきちんと受け止めていない。というよりも、むしろその前に自分が世話をしている鶏としっかり向き合っていないし、鶏の声に耳を傾けてもいないということである。
養鶏の参観案内などを聞いていると、30年も前とほとんど同じことを話していて、自分が養鶏を通して感じたこと、学んだことがほとんど語られることがない。しかし、飼育というのは、一方的に人が鶏を世話するだけでなく、鶏から人が受けるものがあって初めて成り立つもの、つまり飼育者はもたらす者であると同時にもたらされる者なのではないだろうか。「自己に発し、自己に還る」というが、自分から発するものがなければ還るものもない。飼育が、ただ餌をやり、卵を採るという作業の繰り返しにすぎないのであれば、それは誰でもができる代わりにロボットでもできるわけで、心を一切必要としない。しかし、心のないところにヤマギシ養鶏は成り立たない。私たちは、自分が世話をしている鶏や豚や牛から、あるいは野菜や果樹からもっと学ぶべきものがあるはずだし、お互いに育ち合うことができるはずである。そうしてこそ、活用者の意見や批判にも耳を傾けることができるのではないだろうか。
〈8月×日〉
今日、Eさん夫妻が見舞いに来てくれた。いろいろ近況を聞かせてくれたが、最近の鈴鹿の様子やセミナーに参加しての感想が中心であった。その中には、私の納得できることもあったし、納得できないこともあった。
E夫人のKさんはセミナーに参加しての感想として、「人の本来の姿というものがはっきりわかった」と言い、「本来、もともとというものが、自分がどう思おうと事実として存在しているということがはっきりした」というのである。「本来」「もともと」という言葉を「真理」と言い換えてもいいのだろうが、自分が捉えた「真理」が、果たして真理であるかどうかはわからないし、そもそも真理そのものは存在するのではなかろうかとは言えても、間違いなく存在するなどと断言することなどできないのではないか。第一、人間は真理の実在を知ることも確証することもできない。できることといえば、その周辺を手探りで動き回るだけで、近づくことはできたとしても、到達することなどとうていできない。だから、「人間は本来こうだ」「社会はもともとこういうものだ」と断言するとすれば、それは人間を超越したいわば「神の言葉」になってしまう。
またEさんはこんな話をしていた。
「セミナー参加者の一人に、原発反対を言いつづけていた人がいたが、最後のころには全く口にしなくなった。‟それは事実か?”というテーマを考え続けているうちに、それを事実と思い込んでいる自分の思い込みのほうに目が向くようになったのだと思う。これはすばらしいことだ」
半分は納得できるが、半分は納得しかねるものが残った。
事実と思いが違うこと、思いはあくまで観念のつくりあげたフィクションであり、人はこのフィクションを事実と混同していることは間違いなく(と簡単に言い切ってはいけないのだろうが)、自分もまたこの間違いを繰り返してきたし、今も同じことをやり続けているのかもしれないとは思う。そして人間の思い・考えとはそのようなものでしかない、と思っている。しかし、問題はそこからである。そうした思い・考え・物の見方しかできない人間である自分が、現実、事実、対象を前にどうあったらいいのか、ということだ。
そうした自分を自覚した上で、現実に向き合うのか、それとも現実を放棄して自分の認識力を調べることだけに立ち止まりつづけるのか、ということである。「原発を口にしなくなった」ことが、そんなにすばらしいことなのだろうか。どんどん内向きの論理に閉じこもってしまわないだろうか。そんな感想を抱いた。特に「自分のできることと言えば身近なごく狭い範囲のことにすぎないのだから、その範囲を超えることについては考えないようにしている」という意見には、どうにも賛成しかねた。確かに自分の生きる場はちっぽけな世界にすぎないが、それは世界中のあらゆる出来事、宇宙自然界を含むあらゆる出来事とつながっており、過去の歴史的な出来事とも切り離すことができないものなのだ。原発から排出されるプルトニウムが無害になるまでに10万年もかかるとすれば、私たちの今は10万年先の未来とも、その間生存するであろう子や孫のそのまた孫の世界ともつながっている。だから私は、自分の身近な日常の世界だけに閉じこもりたいとは思わない。原発の問題は、やはり考え続けていきたいと思っている。
ただ、以上は私の聞いて思ったことにすぎず、とんでもない聞き違い、そこからの誤解が含まれているかもしれない。
〈8月×日〉
昨日のEさんたちとの話し合いを思い返しているうちに、昔の嫌な経験を思い出した。
私が韓国から帰って成田実顕地の造成に取り掛かったのは、1995年の10月のことであった。この年は1月に阪神淡路大震災、3月にオウムの地下鉄サリン事件があって、世情はどこか騒然としていた。永らく韓国にいて、日本の新聞もろくに見ていない私には、そうした事情に疎かった。成田に移った翌日、開発許可のことで大栄町役場を訪ねると、つい最近大栄町議会が「ヤマギシ会進出反対」の決議案を可決したばかりだという。どうも、山岸会をオウム類似のカルト集団と決めつけての決議らしい。その頃、Kさんたちが進めていた実顕地拡大計画は、新潟でも、富士山麓でも、地元の強烈な反対運動で挫折を味わっていた。同じことが成田でも起きる心配があった。
実顕地が取得した土地は、ミニゴルフ場計画が失敗した跡地で、一部は高利貸に抵当権を押さえられていた。しかも、周辺はたくさんの土地所有者に囲まれていて、開発の許可をもらうためには、それら小地主に開発同意書の判をもらわなければならない。水利組合の同意も必要である。そのため、夜な夜な一軒一軒農家を訪ねるのであるが、すぐに判を押してくれる家など一軒もない。何回も訪問を繰り返し、その都度手土産は受け取るが、「おまえら、あそこで何をするんや。子どもを閉じ込める施設でも作るのか」など、皮肉の一つや二つは言われる。
そんな最中、豊里のほうから「オウム事件は事実か」だったか「地下鉄サリン事件は事実か」といったテーマが聞こえてきた。これは、聞きようによっては、オウム事件は政府・官憲のでっち上げ事件で、事実としてそんなことはなかった、というふうにも聞こえる。毎日、オウム同様に見られて苦労している身としては、何とも嫌なテーマである。事実と思いの分離のテーマであるにしても、この時の不快な思いはトラウマとなって、なかなか消えることがない。それもお前の思いの中の出来事さ、と言われればそれまでの話ではあるが。
〈8月×日〉
船戸与一の『満州国演義』全9巻を読み終えて、大団円という言葉が浮かんできたが、大団円はめでたしめでたしの結末で終わるのに対して、こちらは大日本帝国の悲劇的終章で幕を閉じる。ガンで死を宣告されながら、よく書き上げたものだ。小説として成功しているかどうかは別として、船戸与一の執念を感じさせる作品である。
この小説は、1929(S4)年1月の張作霖爆殺事件から、31年の満州事変、37年の日中戦争を経て41年の太平洋戦争、そして45年の敗戦に至る戦争の時代を、霧島4兄弟というそれぞれ違った4つの視点から描き出す。
昭和7〈1932〉年生まれの私には、この時期はちょうど幼少年期にあたり、戦争の詳細は知らなかったが、昭和史を少しずつかじり出すと、満州(現中国東北部)というものが今なお日本の現実に尾を引いていることに思い当たる。時の満州国家経済を主導し、商工大臣を務めた岸信介の強権的手法を、孫の安倍総理が引き継ぎ、「日本を取り戻す」というスローガンを掲げて、再び戦争のできる国に復活させようとしている。
もう今の若い人たちには、満州と言ってもピンとこないだろうが、ぜひとも昭和史ぐらいは勉強してもらいたいと思う。満州の利権を巡る最初の争いが、1904~5年の日露戦争であり、次が満州の領土化を目指す満州事変である。その足掛かりとして、朝鮮の植民地化が強引に推し進められた。
私の小学校時代の地理の教科書は、日本の領土をすべて赤色で表していたが、樺太・千島はもちろん、台湾・朝鮮・満州はすべて赤く塗りこめられ、太平洋戦争が始まると、香港・フィリピン・仏印等が赤く塗り替えられていった。私ら子どもたちは、それを無邪気に喜んでいたが、勝手に自国を戦場にされ、踏みつけられ、殺されたアジア諸国の人たちが何を感じていたかは私たちの想像の外にあった。そして今なおそれは、多くの日本人の想像力の外に置かれたままである。それどころか、最も身近な朝鮮の人々が、日本の植民地下で創氏改名を迫られ、自国語の使用禁止を強要されていたこともろくに知らないありさまである。8月15日は日本人にとって「終戦の日」であるが、韓国人にとっては「光復節」、つまり解放記念日なのである。歴史を知る努力なしに、心底からの仲良しはできないのではないだろうか。船戸与一の小説を読みながら、そんなことを思った。
〈8月×日〉
何かに関心を向けていると、それに関係したことが飛び込んでくることがよくある。NHKのETV特集で「忘れられた人々の肖像~画家・諏訪敦・満州難民を描く」という番組の再放送が目に留まった。絵の方面に全く無知の私は、それまで諏訪敦という画家について全く知らなかったが、「満州」という言葉で録画する気になったのである。そして、この画家の執念ともいえる真実追求の姿に感動を覚えた。
諏訪敦の祖父母は、1945(昭和20)年4月に、山形から満蒙開拓団に加わってソ満国境近くの村に移住する。8月、ソ連の参戦により逃亡生活が始まり、やがてハルビンで難民収容所に入れられるが、祖父はソ連に連れ去られ、祖母は31歳の若さで死ぬ。8歳になったばかりの父・豊と同年齢の叔母だけが帰国することができた。その父親が死ぬときに、敦宛に遺書を書き残す。そこには、国策として満州移民を進めながら、ソ連参戦とともに開拓団を見捨てた政府の責任を追及し「責任者よ出てこい」と書かれていた。事実、同年5月には、もしソ連が参戦・南下したら、関東軍は戦線を放棄して朝鮮国境近くに移動することが、大本営で決定されていた。開拓団は、国の楯として放棄されることが決まっていたのである。諏訪敦は、この遺書を読んで満州開拓の歴史を調べ始める。そして祖母・信子の肖像を描くことを決める。
まず、画布一面に雪の上に横たわる若き女性の姿を描く。そして諏訪は、この女性を徐々に殺していく。そのために諏訪は、開拓団の生き残りを訪ね、祖母や父の消息を調べる。次に満州(中国東北部)に行き、開拓団の跡地や収容所の跡を訪ね、たくさんの死者が埋められた大地の感触を確かめるとともに、そこを取り巻く風景や空気の色を感じ取っていく。こうした取材の過程で、たまたま父と同じ収容所にいた同年代のSさんという老爺に出会う。Sさんは言う。
「国破れて山河在り、というが、現実はそんなものではない。わしらは襤褸くずよりひどいありさまだった。7歳以下で生き残った者は一人もいなかったし、8歳以上でもほんの一握りしか生き残れなかった。飢えと発信チブスで死んでいくのだが、死者は骨と皮だけになって紙のように軽かった」
取材を重ねるにつれて、画布に横たわる若き女性の体は、肉を削られ、皮膚がたるみ、瞳の輝きが失われていく。国立感染症研究所を訪ねて発信チブスの症状を聴き取った後は、顔から体の隅々まで発疹の赤い印が刻まれていく。そして最後に、髪の毛をどうするかに思い悩む。31歳で死んだ祖母の、女の命ともいえる髪の毛だけは、残しておきたいと思うのだが、あの満州の死の収容所の暮らしで、若い女性たちはどうであったのか。思い悩んでSさんに電話する。Sさんの答えはこうだった。
「ソ連兵の暴行を避けるために、みんな髪の毛は切らされた。これは開拓団団長の命令です。この命令に逆らったら、収容所で生きてゆくことはできなかった」
こうして諏訪は、写真でしか見たことのない祖母の最後の姿を、キャンバスに描き切った。しかしこれは、祖母一人の姿というより、国策によって満州に送られ、国策によって棄民にされた多くの農民たちの悲しみと恨みと怒りの姿そのものである。画題は「哈爾賓(ハルビン)1945年冬」。
この絵には、事実をはるかに超越したリアリズムがあり、真実がある。真実は事実の描写ではなく、想像力の極限に僅かに花開くものであることを教えているようだ。
〈8月×日〉
昨日、中西喜一さんが亡くなった。喜一さんは私より少し若く、今年5月に私が退院した後、韓国のkさんをつれて見舞いに来てくれた。その時の様子では、ピンピンと元気そのもの、これは私よりだいぶ長生きするな、と思っていた。それが8月30日、急に亡くなったと聞いて、信じられぬ思いであった。31日、早速お通夜に駆けつけた。ところが、どうだ。お通夜も告別式も、親族だけで執り行われ、村人も村外の知人・関係者も、すべて焼香だけという流れ解散方式の葬儀であった。しかも、これは喜一さん本人の遺志だというのである。
私などは、死んでから後のことについてはすべてお任せで、葬儀はしてもしなくてもよく、何も注文を付けることはないが、喜一さんにはよほど何か思うところがあったのだろう。それは何なのだろうか? そのことが内部川に帰ってからも頭から離れなかった。そしてここから先は私の勝手な想像、妄想の域を出るものではないが、喜一さんがヤマギシ養鶏を代表する第一人者であった以上、今回の葬儀についての注文の中に、喜一さんのヤマギシ養鶏についての思いが関係しているように思えて仕方がなかった。それを調べるために、山岸さんの『養鶏書』(全集第1巻)と愛農会や愛善みずほ会(大本教)に寄稿した文書を読み直すことにした。そこから生まれた感想の一部は、9月の日録に書いてみることにする。