広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎吉田光男『わくらばの記』(11)

わくらばの記 ごまめの戯言③

〈8月×日〉

「水俣病――魂の声を聞く」(NHK)の再放送をもう一度見た。大阪在住のSさんは、亡くなった劇症患者の姉の首に何回か手をかけたと話す。また、いま水俣に住むTさんは、重度障害の妹が自分の生きがいだと言いながら、車椅子での生活を余儀なくされた今では、この妹が自分よりより先に逝ってくれることを願っていると、苦渋の満ちた顔で語っていた。

 二人とも、水俣病劇症患者の姉妹を愛し、その世話に自分のすべてを捧げ乍ら、その一方で自分より先の死を願う。愛するがゆえにその死を願う。矛盾しているようで、そうではあるまい。これは、障害者は死んだらいい、などという浅はかな考えの世界とは全く異なっている。

 相模原殺人のような事件が起こると、新聞は「いのちの重さ」という言葉をよく使うが、その言葉から「いのちの重さ」を感じさせられることはなく、「言葉の軽さ」だけが伝わってくる。よく子どもの自殺に直面した学校長が「子どもらにいのちの大切さを伝えました」と話す。小学校も中学校も、校長の話はどれも判を押したように同じである。またそれを新聞がそのまま伝える。「いのちの大切さをどう伝えたのか」を聞き出すことなく、またそのことを教育として今後どう生かしてゆくのかには全く触れようとしない。

 言葉の軽さは自分たちにもある。使い慣れた安全な言葉で、大事な問題がするりと抜け落ちていないか、考えてみる必要がありそうだ。

 

〈8月×日〉

『週刊朝日』の相模原殺人事件の記事を読む。何とも寝ぼけた記事で、もう完全にジャーナリズム失格である。

 この事件以来、いろいろ考えているうちに、昔読んだ帚木蓬生氏の『安楽病棟』が思い起こされ、再読してみた。ここでの舞台は障害者施設ではなく、病院の痴呆病棟の話であるが、問題の本質は変わらない。(この小説の書かれた時期によるのだろうが、認知症ではなく痴呆という言葉が用いられているので、そのままこの言葉を使うことにする)

 この小説のテーマは、痴呆になって生き続けること、あるいは生き続けさせることと、人間が生きることの意味をどう考えるか、という人間観の根幹に触れるテーマである。

 主人公の城野看護婦は、尊敬する担当医・香月医師の講演を聞きに行く。そこで香月はオランダの安楽死に関する医療の現状を話す。それによると、オランダでは〈安楽死〉という言葉を使わずに〈生命短縮行為〉と言っているそうで、その対象は重篤な障害をもった新生児、長期の昏睡患者、重篤な痴呆患者であるという。その具体例として、対象は鼻空栄養や胃瘻栄養の患者で、「こうした人工的な栄養は、死の過程を引き延ばすだけであり、患者をベッド上のロボットと化し、治癒はもはや望むべくもなく、痴呆患者をさらに悲惨な状況に陥れるのみだ」とオランダでは断定されているという。さらに香月は「オランダにおける年間死亡例の4割が、実にこの範疇にはいる」と説明する。

 話を聞きながら、城野看護婦は、香月がオランダの実情を紹介してみんなに考える材料を提供しただけなのか、あるいはこうした安楽死を積極的に肯定しているのか疑問を抱く。そのあとしばらく、痴呆病棟の日常が描かれていくが、やがて何人かの死亡例が出始める。そして城野はその死亡に香月がかかわっている事実を突き止める。このドキュメンタリー風ミステリーは、自首をすすめる城野の香月宛の手紙で終わっているが、ここには単純な善悪では論じつくせない問題が含まれている。

 この小説の文庫版に解説を書いた中村桂子さんは「高齢化社会となった今、考えずに済まされることではない」問題だとして、「できるだけ生命を永らえさせることが医療の使命であるという従来の基準でははかれない生死の問題が生じてきている」と書いている。そして、人間の思考は黒白がはっきりした二分法が得意であるが、むしろ正しい解釈というものをはずして、「問題を避けずに正面から向き合いながら、しかし正しい答えへと突き進むのではない道はないか」と問題提起している。

 私自身は、生命維持装置によって生きながらえようとは思わないが、これを他に押しつけようとは思わない。また法によって一律に規制すべきものとも思わない。同時にまた、何が何でも生命が維持されさえすれば良しとする現代の医療が良いとは思えない。要するにわからないのだ。しかし、今一人ひとりがこの生と死の問題に正面から向き合い、自分はどう考えるかを考え続けることが大事なのだと思う。痴呆も障害も、遠からず自分に訪れる問題なのだから。

 

〈8月×日〉

 だんだん体力が落ちてきた。胸やけがひどく、食欲がないし、食べるとつかえて吐きそうになる。終着駅が近づいたとは思うが、特別な覚悟なり思いはない。まあ成り行き任せだから気は楽だ。

 UやKなどの三氏の呼びかけで、特講拡大の会合が開かれるという。各実顕地への参加の呼びかけがあり、内部にも連絡がきた。その呼び掛け文を見ていてもう一つ心に響くものがなかった。それは現状をどう見ているかの分析がなく、研鑽の焦点をどこに置くのかわからない点であった。みんなで寄って景気づけしようでは、何も始まらないのではないか、と思ったのである。

 私は参画40年の僅かな経験しかないが、特講はその時その時の時代の流れと、それを汲み上げる実顕地の努力の相互作用によって大きく動いてきた。この相互作用の動きがどのようなものであったかを知らなければ、今の時代に合った拡大はできないのではないかと思っている。しかし、そのことを知る人、考えようとする人は少ない。そこで、自分の経験を基に、時代状況と実顕地の動きを連動させて考えてみることにした。

 

〈第一次急拡期――1956年~59年〉

 1956(昭和31)年に第一回特講が京都粟生の光明寺で開かれ、これに参加した約160名の参加者が、「もう腹が立たない」「これで世界中から戦争を無くすことができる」と感動に打ち震え、拡大に走り回った。参加者は増え続け、特講拡大は急速に進んだ。と同時に、1953(S.28)年にスタートした山岸会式農業養鶏も急速に拡大を続けており、ここからの特講参加も増えていった。

 そして1958(S.33)年早々、百万羽養鶏の話が持ち上がり、3月に四日市市日永で百万羽養鶏についての有志の集会が持たれた。次いで4月、三重県菰野町で開かれた「かもしか会」という先進的な学者・研究者の集まりで、山岸さんから「百万羽科学工業養鶏」構想が正式に発表された。ここから急速に運動が進み、7月に四日市市赤堀で百万羽創立総会、8月には春日山での山岸会式百万羽科学工業養鶏株式会社の起工式が行われ、参画希望者がどっと春日山に集まった。

 翌59(S.34)年4月、「真目的達成の近道」が発表され、急拡運動の全面展開となる。それまで大阪にあった山岸会本部を春日山に移し、新たに特講会場を建設した。

 ここまでは、急進拡大の名にふさわしく、まさに順風満帆、特講開催回数は84回を数え、参加人数は恐らく5000名を下らないだろうと推定される。

 この時代がどんな時代であったかは、一概にくくることはできないが、昭和31年の『経済白書』に「もはや戦後ではない」という有名なせりふが書かれたように、戦後の混乱が終わり、経済が成長軌道に乗りかけた時期である。しかし、一般にはまだ戦争の傷跡が生々しく、人々は戦争のない安定した社会を求めていた。特講はこうした人々、特に農民層に強く訴えるものを持っていた。

 

 〈縮小停滞期――1959年~70年〉

 特講会場が春日山に移った最初の急革第一回特講、1959(S.34)年6月の第85回特講には〈ニセ電報〉で呼び出された人が沢山いて、逃亡者が続出した。これが山岸会事件の発端である。続く7月の急革第二回、第86回特講の最中に三重県警が「不法監禁容疑」で捜査を開始した。新聞は「養鶏講習の看板で山中に監禁・洗脳」と書き立て、参画者の親族やその周辺の人々は会に対して恐怖心を抱くようになった。

 特講終了後間もなく、県警200名と報道関係者多数が春日山を包囲して、14名を不法監禁容疑で逮捕・拘留した。その折も折、東加九一氏の傷害致死事件が起こる。この事件で、山岸さんを始め、柿谷さん、木下さん等8名が全国指名手配となった。これ以降、特講参加者はほとんどゼロの状態となったのである。

 明くる60年1月、山から土井たかえさん、渡辺操さんら5名が東京に拡大の旅に出る。この年は安保改定が社会の争点となっていて、特に4月以降、安保反対の大衆的なデモが国会周辺で繰り広げられることになった。そしてここに鶴見俊輔さんを始め、思想の科学系の知識人多数がかかわっていて、これら知識人と渡辺さんらヤマギシの夫人部隊がドッキングすることになる。これは、後々ヤマギシを学生・インテリ層に広める上で非常な力になった。

 翌61年5月、山岸さんが亡くなる。特講が再開されるのは、ようやくこの後3か月してからである。参加者は10名足らずでそれほど多くはなかった。この状態はしばらく続く。

 この10年は、64(S.39)年の東京オリンピックをはさんで、経済が右肩上がりに上昇する時代である。岩戸景気からいざなぎ景気へ、実質成長率は最低8・6パーセントから最高14・2パーセントと高水準を維持しつづけ、一億総中流化へと突き進んだ。都市部の住宅不足を解消するため、公団住宅が都市周辺部に広がっていった。ベッドタウンの誕生である。

 こうした経済の上昇過程は、同時に社会的な矛盾や軋轢をも生んだ。国際的にはベトナム戦争の激化、理想とされた中国革命の文革による混乱、また国内では大学の現状や学問のあり方をめぐる学生たちの疑問、こうしたことから学生たちが大学の変革をめざして立ち上がった。いわゆる学園闘争である。しかし、この闘争も68(S.43)年の東大安田講堂への機動隊導入、強制排除で幕を閉じる。全国の他大学でも、この前後1年内外で運動は終息を迎える。

 運動の終息で目標を失った学生たちはどこへ向かったか。一部はヒッピー化して世界を放浪し、一部は新たな共同体に活路を見い出そうとした。いわゆる泡沫コミューンの誕生である。そしてその一部がヤマギシにも流れてきた。農民中心の特講が、ヒッピーや学生、落ちこぼれサラリーマンにとって代わられるようになっていく。

 

〈成長前期――1971年~79年〉

 71(S.46)年秋、安全食糧開発グループ代表の岡田米雄氏から、「食卵として有精卵をつくってくれないか」という話が持ち込まれる。早速、入雛時期、卵価等が決まり、よつば牛乳の共同購入グループ等への供給が始まる。73(S.48)年には、「六川の低農薬ミカンを」という話もあったが、出荷直前になって「見た目が悪い」ということで、キャンセルされた。そこから実顕地が主体となって供給を始めることになり、多摩供給所が発足、活用者グループ作りが始まる。折からの自然食ブームもあって、供給は急速に広がった。これがきっかけとなって、全国的に供給所が設置されることになる。

 一方、特講のほうは、しばらくは参加者が伸びず、10人前後の状態がつづいた。大きく変わり始めたのは、1000回特講(1977年?)に活用者が初めて参加してからである。このとき参加者は70名弱で、東京狛江から活用者第一号として、Y・Mさんが参加した。また医師の松本繁世さん、出版社のHさん、学生のS君など、これまでの反体制社会運動家とは毛色の違った人たちが参加した。これをきっかけに、特講は大きく伸び始める。狛江からは次々と特講送りがつづき、それは町田、国分寺、日野等の都心を囲むベッドタウンへと広がり、またS君を通して、茨城大学や周辺の女子短大へ、また両親の住む新潟三条へと広がった。

 活用者の広がりが特講の拡大を招き、また特講拡大が活用者の拡大を推し進めた。実顕地では卵の需要拡大にこたえるため、新たな実顕地造成が進められ、鶏舎建設が急ピッチで推し進められた。水沢内部川、六川津木、大田原などが造成される。

 この時期に中国研究者の新島淳良夫妻が参画、阿山に幸福学園を開設する。そして75(S.50)年8月に、第一回「夏の子ども楽園村」を幸福学園で開いた。翌76年には、春日山で初めての楽園村を開催、ここから供給、特講、楽園村という連動する拡大運動が軌道に乗っていく。

 

 〈大躍進期――1980年~94年〉

 1980(S.55)年、実顕地ではこの年から年間テーマと月別テーマが出されるようになった。豊里に新しい浴場が作られ、また新食堂「愛和館」が建設されたのを機に、村の暮らしを見直そうというのが、そもそもの出発であった。前年の79年には、それまでの「養鶏法研鑽会」が「生活法研鑽会」に衣替えして、生活面の見直しが始まっていた。

 それまでの愛和館の暮らしと言えば、作業着のまま食堂に入り、豚糞の臭いを周囲に撒き散らして、しかもそれを当たり前としていた。このへんの見直しが始まり、各職場に作業更衣室が作られるようになった。この暮らしの変革は、外から活用者を受け入れたり、楽園村の子どもやその親を受け入れる上で大いに役だった。80年には「ヤマギシの実顕地を参観しませんか」の全国運動が展開された。

 とにかく、この時期の実顕地は拡大に拡大を重ねており、80年の養鶏関係の生産規模は、「餌総量一か月1000トン、鶏舎総連数は25連鶏舎250棟、鶏総羽数は70万羽」(「春日山50年の歩み」)というものであった。82年の春日山8月特講には、141人の参加者があった。84(S.59)年には、海外第一号の韓国実顕地が誕生している。

 まさに村は日の出の勢い。そして、85(S.60)年5月に、「第一期ヤマギシズム学園幼年部」が創設され、翌86年4月に「ヤマギシズム学園高等部」が開設された。

 学園の創設と学園運動の始まりは、それまでの運動に質的変化をもたらした。特講拡大、活用者拡大、楽園村拡大というこれまでの運動形態に学園拡大が加わり、さらにこれは参画拡大という方向へと突き進んでいく。92(平成4)年4月の村人テーマは「2300人学園生 村人と共に新学期」というものであった。楽園村も、学園の拡大を目指して「夏の楽園村」とは別に、「毎月楽園村」(「3週学校、1週楽園村」)運動が展開されることになる。参画者も急激に増え始めた。

 しかし、この急激な拡大は、さまざまなひずみをもたらした。特に、親に強制的に送り出された子どもたち、親の参画によって学園に入れられた子どもたちには、一律的な学園生活は耐え難いものであったかもしれない。何人かの子どもが、祖父母のもとへ脱走する事件が起こった。親は話にならないので、祖父母のもとへという、涙ぐましい脱走劇である。

 こうした事態の中で、93年10月、S・M氏がヤマギシ批判の「私のみたヤマギシズム社会の実態」を発表、続いて94年5月、T氏が『ヤマギシ会の暗い日々』を出版、同年6月には「ヤマギシを考える全国ネットワーク」(代表・松本繁世)を立ち上げた。また実顕地内では、美里実顕地のK氏が、「賃金未払い」ということで、津地裁に提訴した。これは調正機関脱退者からの初めての訴訟であり、これ以後参画時の出資財産返還訴訟が何件も繰り返されることになる。

 一方、実顕地では、「オールメンバー研」が開かれ、毎年5月山岸さんの墓前で「オールメンバーの誓い」を声高に唱える行事が行われるようになった。外部の批判に揺るがない自己の確立を目指したものではなかったかと思う。

 このようなさまざまな動きにもかかわらず、夏の楽園村には全国で6000名を超える参加者があった。まだ拡大は衰えてはいなかった。また、この当時のマスコミは、一般にヤマギシに好意的であった。生産物や楽園村、学園の紹介を、新聞・週刊誌等が積極的に取り上げてくれた。しかし、これが急激に反転する事態が訪れる。

 

〈混乱・縮小前期――1995年~99年〉

 1995(平成7)年1月、阪神大震災が発生、次いで3月、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きる。阪神大震災は、それまで何となく続いていた社会の太平ムードを打ち砕き、地下鉄サリン事件は新宗教やそれと同類と見られた集団(ヤマギシもそこに含まれていた)に、"カルト”‟洗脳”のレッテルを貼り付けることになった。

 この年8月、「ヤマギシを考える全国ネットワーク」が、脱退者と参画者の家族に、実顕地に対する訴訟の勧めをアピールした。これに応じた広島のY氏が参画時出資金の返還を求める訴訟を起こす。翌96年には、Mさんの出資金返還訴訟など、情報公開請求を含むさまざまな訴訟に見舞われることになった。

 こうした時代背景のもとで、それまでデパートに一定の売り場面積を確保していたヤマギシの店が、次々と閉鎖されるようになった。「安全食品連絡会」という団体からの閉店要請を受けてのことであるが、元参画者による「牛乳の日付改ざん」の告発も、生産物の安全面での信頼を失うきっかけになった。

 一方実顕地のほうは、この頃から「本もの」という言葉を多用するようになった。96(H.8)年の2月度テーマは「基盤整備 本もの本質を本筋に乗せる」である。しかし、何が「本もの」であるかの研鑽は十分行われず、実顕地生産物はすべて「本もの」である、という抽象的であいまいな考え方に向かってしまった。この自己肥大化した考え方は、とうてい外部からの批判に耐えられるものではない。しかし、まだ活用者の支持は強く、生産物が大きく減少することはなかったし、特講も活発だった。

 この頃から学園生の祖父母たちによる子どもとの面会要請や、子ども引き取り要求が激しくなる。この動きは、96年11月の「ヤマギシの子供を救う会」の結成(ジャーナリストの米本和弘氏と学園生の祖父母)に至る。これに呼応して、ジャーリズムは一斉に反ヤマギシキャンペーンを開始する。96年11月、日本テレビは「今日の出来事」でヤマギシの子どもを5回に亘り放映、「週刊新潮」など週刊誌も、格好の話題としてこの問題を取り上げた。産経、読売を始めとする各新聞社も同様である。

 こうした反ヤマギシ包囲網の中で、実顕地はどう対応したか。

 97(H.9)年3月度テーマは「日常の総ての現れは もとの心の顕れ」である。また子どもに関しては、96(H.8)年7月度テーマが「親が子供に対して外さない いき方」、9月度が「親と子の異い 親が実践 子供も実践」である。これらテーマの真意は、子どもに対してはわがままを許さない、学園をやめたいとか、係りに対する不満を言わせない、ということであり、また動揺する親に対してはそれは「もとの心」がイズムから外れているからではないか、と引き締めをはかるものであったろう。だから、自分の子どもが「学園をやめたいと言っている」というような話は、村人どうしで話し合われることはほとんどなかった。いきなり村を出る人がいて、「なぜか」と聞くと、ようやく重い口を開いて「子どもが出ると言ってきかないから」と話してくれたりした。

 こうした中で、97(H.9)年、名古屋税務局の税務調査が始まった。この事件は全国紙で「ヤマギシ 脱税疑惑で捜査」と報じられた。翌98年4月、「ヤマギシ会200億円の申告漏れ」と各紙に報じられ、実顕地は60億円の追徴課税を余儀なくされた。

 一方学園のほうは、97年度テーマに「学園 小中一貫学校法人設立へ始動」とあるように、公立校設立準備を始め、翌98年4月に「やまぎし学園」設立認可申請書を県に提出した。しかし、これに対しては「祖父母の会」を始め反対運動が根強く、日弁連が「子どもの人権擁護」という観点から勧告を出したり、また県が小中学生に対するアンケート調査を行い、認可不適切の方向へ大きく傾いた。そのため実顕地は、99(H.11)年6月、申請を取り下げることとなる。

 この90年代後半の時期は、実顕地にとってまさに激動の時代である。村の指導部門に、ある種の亀裂が見られるようになった。それは村人テーマに表れている。

 98年3月度「行ける所へ 行きたい時に 行く自由」

 同4月度「やりたい人がやりたい丈やる自由」

 99年9月度「自主 自発 自立 自律」

 これらのテーマは、それまでの一定の強い方向性をもったテーマから「自主」や「自由」を強調する方向へ転換している。しかし、完全に変わったわけではなく、方向性をもったテーマとしばらくは同居していた。ところが98年10月、突然「村から街へ、イズム普遍化の秋来る」というテーマが出された。これは、それまでの全員参画、実顕地拡大という流れとは逆行するものであった。いわば、実顕地解体の方向である。これは、真意不明のまま村人の混乱を引き起こした。こうした最中に、これまで実顕地の運動を指導していた杉本利治さんが亡くなった。

 

〈衰退期――2000年~2012年〉

 2000(H.12)年から村のテーマが一切なくなった。方向付けをしない、というか方向付けができない状況になったのである。そして村から街への流れの中で、脱退者が相次いだ。ただこの脱退者のうちには、ヤマギシズムそのものに反対してというのではなく、今の実顕地に異を唱えてという人がかなり含まれていた。そして、この年の12月には、S氏などの人たちが鈴鹿に居を移し、新たな運動拠点を構築した。これによって、村を出る人、それに強く反発する人、両者の間で迷う人と、村人の間でしばらくは混乱が続いた。こうした動きは、学園の解体を早め、学園廃止に追い込まれる実顕地が相次いだ。当然、楽園村も参加者が減り、特講も縮小した。また、活用者グループの解体により、生産物の供給も急速に減少した。1980年以降、供給拡大、楽園拡大、特講拡大、学園拡大、実顕地拡大と互いの相乗効果で伸び続けてきたヤマギシズム運動が、ここへ来て負のスパイラルに陥ったのである。

 このような時にもっとも大事であるはずの研鑽が、十分に力を発揮できなかった。というよりも、研鑽力が村人の間に十分養成されていなかったということであろう。「聞く」「検べる」という最も基本的な部分が欠落していたのではないか、と思う。調正所の言うことは聞けても、それに反対する人の意見は聞けなかったり、またその逆であったりした。つまり、誰の言うことでも聞けて、誰に対しても言えて、では本当はどうかと検べる、検べ合う――この基本的な研鑽力が身についていなかったのである。

 これは、これまでの特講、研鑽学校のあり方、中身を検討するいい機会であったと思うが、ほとんど取り上げられることはなかった。そして従来通りの研鑽体制を今なお踏襲している。

 この2000年前後の時期で記憶に残っていることの一つに、こんなことがあった。熊本の甲佐実顕地にいるとき、何人かの供給所のメンバーが、配送車や運輸トラックに書かれた「ヤマギシ」の文字を薬品で消しているのだ。「何しているのか」と聞くと、本庁から消すようにとの指示があった、というのである。周囲からの反ヤマギシキャンペーンが盛んなこの時期こそ、「我々はヤマギシです」と胸を張ってなぜ言えないのか。なぜ隠さねばならないのか。同じように、農産物でも、これまで「本もののヤマギシの生産物」と謳っていたのに、「なになに農園の農産物」とヤマギシの名前を隠すことがはやり出した。こうした姿勢の裏に、何があったのだろうか。次の運動の発展のためには、避けて通れないテーマのはずである、と思うのだが……。

 

 〈???――2013年~〉

 2013(H.25)年に春日山で一部にテーマが出されるようになった。最初は春日山で細々とテーマのある暮らしが始まったが、翌年には各実顕地にこれが拡がっていった。「実顕地一つ」あるいは「実顕地一つからの実動」ということで、実顕地間の交流が盛んになった。これは、それまでの停滞ムードを吹き払い、新鮮な空気に入れ替える効果があった。しかしこれが、ヤマギシズム運動の本質的部分や実顕地生活の基本的な部分の変革につながるかどうか。

 この間、生産物の供給はほとんど止まってしまった。供給所は次々と閉鎖され、配送も宅急便などに切り替えられた。替わって登場したのが「ファーム」という名の販売所である。しかしこれも、一部地域に限定されていて、全国展開とは程遠い状態である。また、特講も参加者が伸びず、開催回数も激減してしまった。

 いま日本の社会はますます混迷の方向をたどっており、若者の多くは希望を失って自殺者が絶えず、老人は施設や団地の一室で孤独死を余儀なくされている。こうした時代の変化に、ヤマギシは何をもって答えるのか。これからの実顕地はどうあったらいいのか。今ある実顕地の良さ、可能性というものを、どうすれば社会に発信できるのか、自己満足ではない答えが、いま一人ひとりに問われている。

 

  以上は8月に記したノートを整理したものであるが、これの整理には何日もかかってしまい、疲れ果ててしまった。昨夜は夜中3時まで吐きつづけ、このまま書き続けるのは難しそうなので、一応今回はここで打ち切ることにする。

 なお、年表は「春日山50年の歩み」と「近代日本総合年表〈岩波版)」を用いた。これらの年表と自分の経験したことを重ね合わあせて綴ったものであるが、1990年以降は韓国に行っていたり、帰国後は成田の造成や大田原、甲佐等、周辺部分にいて、豊里や春日の動きを直接知る機会がなかった。そのため、見方が偏ったものになっているかもしれない。できたら、大勢の人たちがそれぞれの経験を持ち寄って、歴史を振り返ると共に、これからの進路がいかにあるべきかを検討してほしいと願っている。