広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎吉田光男『わくらばの記』(7)

わくらばの記  病症妄語⑥

〈4月1日〉

 窓の外に遠方の桜が花開いてきた。まだ6~7分咲きで、満開までにはもう4,5日かかりそうだ。

 夜中、咳はまだ少し出るが、体調はいい。 

『カラマーゾフの兄弟』ようやく読み終える。もう3回も読んでいるが、その都度考えさせられる。また引きつけられるところも違うので、面白い。

 やはり一番の問題は、ドストエフスキーの提出した大テーマ「神は存在するか。不死は存在するか」「もし神も不死も存在しないとすれば、人間は何をしても許されるのか」という問題である。そして聖書の中でキリストが悪魔の誘惑を拒否して「人はパンのみに生くるに非ず」と答えたことから「天上のパンか地上のパンか」という問いを、この小説は改めて問い直した。

 キリスト教という一神教を信じない私たち日本人にとって、このへんは頭での理解を超えることは難しい。しかし、唯一絶対神を信ずることのない私たちにしても、「何をしても許される」、つまり殺人、強盗、放火などの犯罪を犯しても許されるとは思っていない。では、私たち日本人は絶対神によらずして、何を歯止めとして持っているのだろうか。神道、仏教等の多神教の要素のほかに、日本列島の風土に養われた道徳、道義上の何らかの歯止めが用意されていたはずである。

 しかし、「地上のパン」つまり物質的繁栄のみを追求する今の社会状況の下では、その道徳、道義上の歯止めさえ怪しくなりつつある。戦争や武力による覇権を肯定する考え方が、安倍政権の下で醸成されつつある。今こそ「天上のパン」に代わる「地上の新しい理想」が求められているのだと思う。

  

〈4月2日〉

「科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大な迂愚者(おろかもの)の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である」 ――寺田寅彦『科学者と頭』―― 

 体調は良好、熱も平熱がつづいており、咳も夜中に少々だけ。

 『カラマーゾフ』について考え続ける前に、現在の宗教事情について論じた仏人類学者のエマニエル・トッド氏の注目すべき見解の幾つかを書き写してみる。(朝日新聞2月11日付けインタビュー「展望なき世界」より)

「イスラム国(IS)もイスラムではありません。彼らはニヒリスト。あらゆる価値の否定、死の美化、破壊の意志……。宗教的な信仰が解体する中で起きているニヒリズムの現象です」

「イラクのフセイン政権はひどい独裁でしたが、同時にそんな地域での国家建設の始まりでもあった。それをブッシュ政権は、国家秩序に敵対的な新自由主義思想を掲げ……戦争を始めて破壊したのです」

「中東でこれほどまずいやり方はありません。今、われわれがISを通じて目撃している問題は、国家の登場ではなく国家の解体なのです」

「パリでテロを起こし、聖戦参加のために中東に旅立つ若者は、イスラム系だが、生まれも育ちもフランスなど欧州。……あの若者たちは欧米人なのです」

「(パリの)デモに繰り出した人の割合が高かったのは、パリ周辺よりもむしろかつてカトリックの影響が強く、今はその信仰が衰退している地方。それは第二次大戦中のビシー対独協力政権を支持した地域、階層でもある」

「今後の30年で地球に何が起きるか……まず頭に浮かぶのは信仰システムの崩壊です」

「(それは)宗教的信仰だけではない。もっと広い意味で、イデオロギー、あるいは未来への夢も含みます。人々がみんなで信じていて、各人の存在にも意味を与える、そんな展望が社会になくなったのです」

「そのあげく先進国で支配的になったのは経済的合理性。利益率でものを考えるような世界です」

「(それは)信仰としては最後のものでしょう。それ自体すでに反共同体的な信仰ですが。経済は手段の合理性をもたらしても、何がよい生き方かを定義しません」

「世界各地で中間層が苦しみ、解体されていますが、フランスは違う。中間層の代わりに社会の底辺がじわじわと崩れています」

「そこを見ないで悪魔は外にいることにする。……『砂漠に野蛮人がいる。脅威だ。だから空爆する』 恐るべき発想。ただそうすれば、仏社会内の危機を考えなくてすみます」

「先進国の社会で広がっているのは不平等、分断という力学。(日本は)移民がいなくても、教育などの不平等が同じような状況を生み出しうる」

「この段階で取り組まなければならないのは、虚偽からの脱却です。お互いにうそをつく人々、自分が何をしようとしているかについてうそをつく社会。自分が依然として自由、平等、友愛の国という社会。知的な危機です」

 

〈4月3日〉

 体調変化なし。ただ、お茶を飲むと、食道に多少の違和感というか、つかえる感じがする。もしかすると、これはもう無くならないのかもしれない。いずれにせよ明日の検査ではっきりするだろう。 

 さて、昨日のトッド氏の論評である。彼はISはイスラムではなく、ニヒリストだと言い、宗教の解体の産物だと分析する。また反イスラムデモに繰り出すフランスの市民の多くは、かつてカソリックが強く今はそれが弱まった地域の住民が大部分を占めているという。つまり、イスラム、反イスラム双方とも、その運動が宗教の解体の結果引き起こされた現象と見ている。

 しかし、本当にそう言い切ってしまっていいのだろうか。そうは言い切れないのではないか。むしろ氏もあとで述べているように、天上の理想の喪失ではなく、差別や貧困による地上の理想の喪失の結果ではないだろうか。そしてその理想の喪失は、経済、職業、教育等の格差によってもたらされたものである。これは天上の理想、つまり信仰の強弱に関係ないのではないだろうか。

 では、この格差を解消する道筋はあるのだろうか。恐らく不可能ではないかと思われる。いまのグローバル化された自由主義経済の広がりは、一部の人間だけが富の大部分を占有する自由と、他の大部分の貧困化への自由をもたらす以外になくなっている。もう行き着くところまで行かない限り止めようがない。ということは、世界中から紛争を無くすことはできないだろうということである。

 僅かな可能性があるとすれば、小グループの共同体が各地各方面にできて、それぞれが連携しながら、あるいは認め合いながら、自衛してゆく以外にないのではないだろうか。ヤマギシもその一つとして、未来への小さな可能性を切り開いてゆけたらと思う。

  窓から見える桜、満開のようだ。内部の桜まつり、せめて午前中だけでも雨にならなければいいのだが。

 

〈4月4日〉

  体調変化なし。

 中島岳志・島薗進両氏の対談『愛国と信仰の構造』を読む。非常に学ぶところが多かった。日本の近代史上の出来事については、大筋は知ってはいるが、その背景をなす宗教の流れについてはあまりよくわからず、特に真宗が国家神道に溶け込んでいった事実や思想的背景については全く知らなかった。親鸞の絶対他力の思想、つまり自らのはからいを捨てて弥陀の本願にゆだねる思想が、天皇への絶対帰依に転化してしまい、これが天皇機関説排撃への理論的支柱になったことなど想像だにできなかった。しかも、あの悪名高い蓑田胸喜が真宗の信者であったとは!!

 それにしても、この本から考えるべきことは非常に多い。当分手放せない。 

 レントゲン検査、やはり通りにくい部分あり。

 

〈4月5日〉

 体調変わらず、というか良好。たった一本ながら150ccのジュースをおいしく飲む。 

 1900年代の末であったか、社会博の一環として豊里で「宗教に非ず」の講演会を開いたことがあった。確かHさんが講師であったと思うが、これについてキリスト教者からはだいぶ反発があり、知人の朝日新聞・井川記者からも批判があった。その後、同名の本が、ヤマギシズム出版社から公刊された。

 いま考えると、私にも村人全般にも、宗教に対する誤解がだいぶあったように思う。「宗教に非ず」は要するに「ヤマギシズムは宗教ではない」というだけにすぎないが、これを宗教はいけないもの、だめなもの、と宗教そのものの存在を否定する意味でとらえていたのである。

 山岸さん自身は、特定の宗教や教義自体を否定してはいない。ただそれを信じ込んで身動きのできない状態になることは、零位に立つことを妨げ、研鑽不能の状態に陥るために、そのことを否定したのである。しかしまあ、このへんは微妙なところで、信ずることを否定しながら宗教を肯定できるか、と反論されればちょっと言葉に詰まってしまうが。ただ、こうは言うことができる。私自身は宗教を信じない、しかし世に宗教が存在することは否定しないし、しようとも思わない、と。

 信じない生き方ということは、宗教に限らず、マルキシズムでもヤマギシズムでも同じである。決めて動かせない思考様式を、山岸さんは宗教、あるいは信仰と言ったのである。それは、例えば吉本隆明氏であろうと、鶴見俊輔氏であろうと、はたまた山岸巳代蔵氏であろうと、同じである。その言うことすべてを批判的検討(研鑽)なしに信じ込む態度を宗教という言葉で言い表したのである。しかし、実際には、山岸さんや自分の好きな思想家については、どこか信じようとする気分が働いていることを認めざるを得ない。 

  また点滴のハリが詰まり、刺し直すことになったが、担当看護師は2回も3回もやり直す。痛いし、血は出るし、この人はサディストではないかと思えた。よし、それならこちらは痛さを楽しむマゾヒストになってやるぞ、と決意したが、やはり自分には無理のようだった。それで「次は一発で決めてや」と言ったら、「ちょっと待って」とベテラン看護師を呼んできた。すると、上膊部静脈に一発で決まった。しかも痛くない。経験値の違いに驚いた。

 

〈4月6日〉

 体調、変化なし。 

 村上春樹の『ウィーンの森』は既に読んだはずだと思っていたが、内容を全く覚えていない。そこで娘に頼んで本棚から持ってきてもらって読んでみたら、全く読んでいないことが分かった。買ったまましまい込んで、読んだつもりになっていたのだからあきれる。老化現象も極まれりといったところだ。しかし、村上春樹の文章はうまい。流れるようで、とどまるところがない。

 中島岳志氏は、自らの保守宣言について、「保守は過去にも未来にもユートピアを求めない」と述べ、その理由として「絶対に人間は誤るものである」、そして「人間が普遍的に不完全なものである以上、人間の作るものは不完全である」と語っている。

 これは吉本隆明氏の「反原発批判」に対する批判として語ったものであるが、ちょうど私自身が「人間は誤るところの動物である」という結論に達していたところなので、大変共感を覚えた。ここから導き出されるのは、人間が誤り多い動物である以上、人間のつくりだす集団自体も、誤り多い存在であるということだ。

 かつて私たちはよく「真理」を口にし、「真理にそって」などと言っていたが、自分たちの行為が真理にそっているかどうか、誰が検証し誰が保証するのか、みんな自分たちがそう思い込んでいたにすぎなかったのではないか。

 もしも人間が誤り多い動物であり、その集団も当然誤りやすいものであることを自覚していたならば、すべてにもっと謙虚になれたはずである。誤りや失敗は何ら恥ずべきことではなく、それを素直に認めないことこそが恥ずべきことなのだと知っているからである。そして他からの批判に対しても、謙虚に耳を傾けることができる。このような集団こそ、今の世に求められる最も魅力的な集団であるだろう。

 

〈4月7日〉

 病室の窓の外を小学生が通る。子どもたちが団地から次々と吐き出され、傘をさしながら二列縦隊で通り過ぎる。遠くからではあるが、子どもたちが元気に歩くのを眺めるのはいいものだ。昨日が始業式だったようで、今日から新学期の学校生活が始まるのだろう。

  新年度といえば、NHKの番組構成もスタッフも大幅に入れ替わり、中身はますますつまらなくなった。ニュースさえ面白くない。政治が右寄りになればなるほど、中道を標榜するマスコミも、雪崩を打って右寄りになってゆく。だんだん昭和初期の暗い時代に似通っていくようだ。

 中島岳志氏の本を読んで――

 もし”真理”を山の頂上に例えるなら、頂上への道は一本しかない、とするのが一神教であり、頂上への道は多数あり、どれを上ってもよいとするのが多神教であろう。中島氏は島薗進氏との対談の中で、多神教を「多一論」と名づけ、一神教の「単一論」と対比している。

 中島氏によれば、ガンジーも、鈴木大拙も、西田幾多郎もこの多一論で、「一なるもの」は言語化できないとしている。つまり、それが真理である以上、人間の相対的言語によっては表現できず、人間は真理の影しかとらえられない、という。そして、民芸の創設者である柳宗悦は、「世界は多元的であるがゆえに、複合的な美を内包している」と語って、朝鮮の独立を支持したり、その陶芸を愛し世に広めた。

 こうした「多一論」の帰結は、絶対的なもの、例えば完全無欠な幸福社会としてのユートピアはありえず、人間に可能な社会は「より良くより正しい」ものを求め続ける「永遠の微調整」だけ、ということになる。

 今日は胃カメラ検査あり。非常に苦しかったが、明日から食事可能との診断が下された。

 

〈4月8日〉

 体調良好。特に記すことなし。 

 カントは読んでいないが、中島氏によれば、その絶対平和の理念は「統制的理念」と「構成的理念」とから成り立っているという。「統制的理念」とは絶対平和のような「人間にとって実現不可能な高次の理念」で、「構成的理念」というのは、「政治的に実現可能なレベルの理念」だそうだ。

 そういえば、ドストエフスキーも「キリストの絶対愛の理念は地上の人間には実現不可能なものだが、この理想なしには地上は獣の住家になってしまう」と『作家の日記』に書いている。

 同じように私たちも、地上天国としてのユートピアを描くとしても、現実にはより良くより正しくを目指して、微調整しながら歩み続けるしかないのかもしれない。

  朝食の流動食、何かと思えば、具なしのみそ汁にゼリー一個、後から豆乳一箱。こんなものしか食えぬとあれば、当分病院を抜け出せそうにない。

 

〈4月9日〉

 体調、変化なし。

 昨日の流動食―― 

  朝 具なしみそ汁、ゼリー、2時間後豆乳。

  昼 ポタージュ、ゼリー、後から栄養ジュース。

  夕 豆腐少々、ジュース. 

 一昨日、E夫妻が来て、屋久島への旅の感想を話し、そのさい山下大明氏の屋久島の写真集『樹よ』を贈ってくれた。

 この写真集は見事なものだ。樹の一本一本が、あるいはその集合としての森全体が、生命のあり様を語りかけてくる感じがする。生命というものが、その中に死を含んでいるからこそ荘厳で美しい、ということがよくわかる。

 この本に解説を寄せた山尾三省氏は、「この写真集は山下さんの自画像である」と書いている。

 かつて私は、今西錦二氏の『生物の世界』を読んだとき、氏が「これは私の自画像である」と書いているのに驚いたことがある。戦時下、28歳で徴兵に服するさい、それまでの研究成果である”棲み分け”論を遺書代わりに書いたのがこの本であるが、ここには単なる観察記録ではない今西さんの心に映った見えざる自然のあり様と仕組みが映し出されている。しかもこれは、ダーウィンの競争と淘汰と適応を主軸とする進化論に拮抗する新しい生物理論として提起された。まさに”自画像”というべきものであった。

 同じように、昭和18年に出版された武田泰淳氏の『司馬遷――史記の世界』も、自画像だなあという感じの強くする著作である。中国大陸における2年間の軍務生活の中で氏に何があったのか、その心にどんな変化が生じたのかはわからないが、この本はこういう書き出しで始まる。

「司馬遷は生き恥をさらした男である。士人として普通なら生きながらえる筈のない場合に、この男は生き残った。口惜しい、……腐刑と言い、宮刑と言う、耳にするだにけがわらしい、……日中夜中身にしみるやるせなさを、噛みしめるようにして、生き続けたのである。そして執念深く『史記』を書いていた」

 何か身につまされるような書き出しである。昭和18年、31歳でこの本を出版した後、氏は再び上海に渡っている。竹内好氏はこの本の解説で「彼は見かけ以上に、他人に託して自己を語ることにすぐれた才能の持主である」と書いている。

 いずれにせよ、それがどんなにつらいものであったにせよ、自画像の描かれていない作品、書き手の心が映し出されていない論文などは、砂を噛むような味気ない思いしか残らない。 

 窓の外に見える桜は、すっかり色あせてしまった。もうすぐ葉桜の季節に入る。果樹園の柿も、新葉を伸ばす時期だ。今年はその世話ができるかどうか。

 

〈4月10日〉

 体調変わらず。しかし、昨夜は隣のベッドからの鼾に悩まされた。

 2000年以降のさまざまな出来事を振り返り、自分自身を省みる上で、何よりも大きかったのは『山岸巳代蔵全集』の編集にかかわることができたことであった。もちろん、山岸さんの真意を理解できたとは思えないが、言葉の端々から、実顕地のあり方や自分の思考の誤りに気づくきっかけを与えてくれた。硬直した考え方を見直す大きな契機となった。

 しかしまた、どうしても理解できないことや納得できない論説もある。これまでは、山岸さんの言うことに疑問が生じても、口に出して言うことができなかった。しかし、疑問を疑問として提起できないような態度からは、真の研鑽態度は生まれないと考えられるようになった。なぜならそれは、山岸さんを一種の教祖に祭り上げることになってしまうからである。

 山岸さん自身が、次のように書いて盲信を戒めている。

「特別人間や、神や、仏は仲間入りして居りませんから、或る人を盲信し、屈従迎合しない事で……」

「私を神仏化したり、絶対者扱いをする変り者や、中心指導者と思い違いしている言葉をよく聞きますが、これは大変な誤りで、このような間違った観点に立って事を進めると、偏った方向へ進み、宗教的になったり、独裁者が出来たり、分裂したりして、いつかは壊滅します」(『ヤマギシズム社会の実態』)

 そのことに関連して、長く記憶に残っていることがある。それは、高等部が発足した1986年かその翌年のことだったと思うが、高等部生に対するテーマとして「Sさんが『これが本当のことだよ』と言ったら、それは本当のことだろうか」という言葉が投げかけられた。

 当時Sさんは養牛部のリーダーとして学園生の受け入れにあたったり、実学の講師として教育面の指導にもあたっていた。このテーマが出された本当の理由はわからないが、やや独善的と批判のあったSさんに対する内々の批判的意図が含まれていたように思われる。しかし、しばらくして、このテーマが取り上げられることはなくなり、いつの間にか立ち消えになってしまった。

 私自身は、面白いテーマだとして記憶に残ったのだが、その時はあまり深く考えることがなかった。しかし、今思えばこれは大変重要なテーマだったと思う。「Sさんが『これは本当のことだよ』あるいは『これは真理だよ』と言ったこと」というテーマの「Sさん」を、他の「Aさん」「Bさん」に置き換えてみたらどうだろうか。誰の言うことだろうと、その人の言う「本当」が本当かどうかはわからないことなのである。実顕地内のどんな指導的立場にある人だろうと、あるいは山岸さん本人であろうと、あるいはまた歴史上の宗教上、思想上の偉大とされる人物であろうと、その言説が真理かどうかはわからないことであり、それだからこそすべての言葉を信ずることなく謙虚に耳を傾け、研鑽しなければならないのである。学園生のテーマは、そこにつらなる大事なテーマであった。しかし、少しも深めることなく、いつの間にか消え去ってしまった。

 このテーマがなぜすぐに消えてしまったのか。なぜ学園生のテーマから村人全体のテーマにならなかったのか。もしこのテーマが、特定の個人の影響力を排除するためにのみ使われたのであれば、あまりにも姑息と言わねばならない。真相はわからないが、このあたりに当時の村の実態が示されているように思われる。

 

〈4月11日〉

 体調、特に変化なし。 

『ヤマギシズム社会の実態』を読んでいて、最近一番疑問に思うのは「人間の知能」のところである。山岸さんは、人間の知能に全幅の信頼を置いているように感じられる。

「私は人間の持つ知能は、必ずやこれ位の事(人間社会に紛争が断たれず、不幸から脱却出来ない事)は容易に解決し得るものであることを、堅く信ずるものであります」

 そして、こう結論する。

「人間を幸せにするものは人間であり、その知能であることに間違いなしと断定しております」

「他の何物も真似られない優秀な知能を持っている人間が、人間自身の不幸を無くすることの出来なかった原因は、知能の用い方が間違っていたからです」

 私が生れてから今年で84年、第二次大戦後からも71年、その間人間の知能が少しは進んだかと言えば、決してそうは言えない。あるいはもっと古く歴史上の何百年か前と比べてみても、人間の知能が深まったとは言えないだろう。その原因が「知能の用い方が間違っていたから」と済ますことができるだろうか。「知能」と「知能の用い方」を二つに分けているけれども「用い方」も知能の一部なのではないだろうか。

 ところで、「人間の知能」という場合の「知能」とは何だろう? 知識のことなのか、あるいは知識を現実に働かせるテクノロジーを指すのだろうか。あるいは、もっと根源的な人間の心の働きのことなのだろうか。恐らく最後の心の面を指して「知能の用い方」と言ったのではないかと思うが、心の問題こそ、人間にとって一番厄介な、解決困難な問題である。

 前にも書いたことだが、知識やテクノロジーは論理や数式として幾らでも個人の外部に蓄積可能であり、他への引き継ぎが可能なのに対して、心は一人ひとりの個人の内面にしか存在しえず、人から人へ直接引き継ぐことはできない。知識・テクノロジーがジェット機での移動なら、心は自らの足でテクテクと移動するアリの歩みのようなものである。この両者のギャップはますます拡大するばかりだ。

 何人かの友人にこの話をしたことがあるが、みんな「知能の用い方の問題だ」と言うばかりで、「では、いつどのようにして用い方が改まるのか」ということには、明確な答えがなかった。特講などの講習がその答えの中身なのだろうが、特講を受けたはずの自分たちの知能の使い方が、満足できるほどのものかと問われれば、まことに心もとない。

「人間の知能」のところは、単に「使い方の問題」として、その解決策は特講だと、簡単に割り切ってそれでお終いにするのではなく、もっと真剣に考え直す必要があるように思う。

『広辞苑』から――

〈知能〉

 ①知識と才能

 ②知性の程度、環境に対する適応能力

〈知性〉

 頭脳の知的な働き、知覚をもととして、それを認識にまでつくりあげる精神的機能

〈知識〉

 ①ある事項について知っていること。またその内容

 ②物事の正邪などを判断する心の働き

 

〈4月12日〉

 昨日の昼から三分粥とペースト状の副食三品という食事になった。最初はすぐ腹が膨れ、三分の一は残したが、夜は何とか全部食べられ、今朝はわりと楽に全部食べられた。しかし、この食事は楽しいというより、義務感による仕事のようなものだ。一刻も早く点滴を外し、退院にこぎつけるためには、食事が欠かすことのできない労働の一つになった感じである。 

 私が特講受講時から心にひっかりを感じていたのは、「人種改良と体質改造」に関する山岸さんの主張である。『ヤマギシズム社会の実態』には、次のように書かれている。

「人間という生物は案外迂闊なもので、他の動植物に対しては、随分思い切った改良を加え、新しい優秀な品種を作出し、その特徴を高揚して来たにかかわらず、肝腎の人間自身の問題には頗る狭い考え方で、……因習・道徳・宗教観に捉われ、……劣悪体質・低知能に、自他共に苦しみ、進化向上の跡見るべきものがありません」

 そこからの帰結として、人類中の優れた遺伝因子の組み合わせにより「百万人のエジソン、千万人のシャカ、キリスト、カント、マルクスに優る人を」生み出すことを提案している。

 私はこの40年間、何回も青本を読み返すことはあったが、この部分だけには目を閉ざしてきた。口にも出さなかった。出せなかったのである。

 しかし、最近の人工知能の研究者たちの間で、遺伝子操作による体質改造やナノテクノロジーを用いた人体改造がテーマになってくると、これは大変なことだと思わざるを得なくなってきた。『シンギュラリティーは近い』を書いたレイ・カーツワイルによれば、「2030年代までには、人間は生物よりも非生物に近いものになる。……2040年代までに非生物的知能はわれわれの生物的知能に比べて数十億倍、有能になっているだろう」と書き、

「われわれはサイボーグになっていく」と言っている。そして、「魂の不死」ではなく、「肉体の不死」がやがて訪れるだろうと予言する。

 何か恐ろしい時代がやってくる感じがする。こんなことがそう簡単に実現するとは思えないが、一部先端技術の研究がこのような方向に向かっていることは間違いないように思われる。こうした時代の空気に触れると、今一度山岸さんの説に研鑽の光を当てる必要がありはしないかと思うのである。

 昔何かで読んだ話だが、イギリスのある批評家(名前を忘れた)に有名な肉体女優がささやきかけた。

「先生のその優れた頭脳と、私のこの素晴らしい肉体が合わさったら、どんなにすばらしい子どもができるでしょう」

 するとその批評家はこう答えた。

「君のその貧しい頭脳と私のこの貧弱な肉体が合わさったら、どんな子どもが生まれると思う?」

 「世界で一番貧しい大統領」として有名な南米ウルグァイのホセ・ムヒカ前大統領が来日した。氏は、記者会見でこう語った、と7日付の「中日」は報じている。

「いまだ人類は先史時代を生きている。戦争を放棄する時が来たら、初めてそこから脱却できる」

「貧乏とは少ししか持っていないことではなく、無限に多くを必要とし、もっともっと欲しがることです」

「質素な生活は自分のやりたいことをする時間が増える。それが自由だ」

 

〈4月13日〉

 体調は良好。早く普通食に移れるといいのだが、医師の話ではそれは難しそうだとのこと。そして、万が一むせることがあると肺炎をおこす可能性があり、その予防措置として胃瘻の手術をしておいたらどうか、と提案された。しかし、胃に穴を開ける手術は気が進まない。そんなにしてまで長く生きる価値があるのかどうか。まあしばらくは見合わせることにする。 

 青本を読んでいて、もう一つ心にかかることがある。それは山岸さんが、ヤマギシズム社会の実現をすぐにでも実現できると考えていたのではないか、と考えられることである。「受講者一粒万倍運動の展開」には、特講受講者を3年以内に世界中の全人類にまで拡大すると書かれている。そこから、世界急進Z革命という構想も生まれた。1958(昭和33)年に春日山に100万羽科学養鶏KKとして一体生活が始まると、その翌年にはこの急革運動は山岸会事件を引き起こすことになる。

 急革という考え方はその後も引き継がれていった。61年に実顕地構想が打ち出され「現状そのままでの社会変革」が叫ばれると、全国各地に近隣の会員同士による実顕地が作られていった。しかし、長続きすることはなかった。70年代の”泡沫コミューン”と同じように、いつの間にか消え去ってしまったのである。

 急革運動が最も進んだのは、1980年代である。高度成長からバブル崩壊に至る80年代はまた、特講拡大、活用者・生産物拡大、楽園村拡大、学園拡大、参画拡大というヤマギシズム運動の急進革命期でもあった。しかも運動は、日本のみならず韓国、スイス、ブラジル、タイ、オーストラリア、ドイツにまで広がった。しかし、これも長続きはしなかった。

 それが何故なのか、という解明は未だなされていない。このことの究明なしに、次の新しい展開は困難だと思われるのだが、そのあたりの研鑽がなされているようには感じられない。聞こえてくるのは、以前に行われていた運動の延長線上にあるものばかりである。

 私の考えでは、原因は恐らく、人間というものの心の解明の甘さにあったのではないかと思うのだが、今日は疲れた。また別の日に考えることにしよう。

  再度、造影剤によるレントゲン検査。結果は食道の通りがだいぶ良くなったので、点滴を外し毎食栄養ジュースを出すことにする、とのことだった。

 夕方、いよいよ点滴チューブともお別れになった。身動きが何と自由なことか! この分なら退院も近いかもしれない。ただ、医師に「正直なところ、あとどれくらい生きられそうか」と聞いたところ、「いいとこあと2年」という話だった。それはあと1年かもしれないし、3年かもしれない。いずれにせよそう長くはなさそうだ。

 しかし、それは覚悟していたことだ。ただ、残された人生をどう生きるか、それだけが残されたテーマである。

 船戸与一『満州国演義⑥』読了。

 

〈4月14日〉

 胃に僅かな違和感はあるが、ほぼ快調と言える。

 今日、別の医師から話があるようだが、何なのか。多分、退院後のケアのことだと思うが、こちらとして聞いておきたいことは、今後痛みが発生した場合の対処法である。

  話というのは、親族との面会日の打ち合わせで、特別のことはなかったが、しばらくして一度外出してみるかと言われた。そうか、一度内部へ帰ってみるのもいいかもしれない。入院中に移動した新しい部屋も見ておきたいし、パソコンも点検しておきたい。みんなにも会える。

  点滴が外れたので、久しぶりにシャワーを浴びた。頭のてっぺんから足のつま先まで、石鹸で洗い流した。実に気分がいい。日ごろ毎日風呂に入っていた時は、風呂のありがたみなど感じたことはなかったが……。やはり失って初めて見えてくる世界があるのだろう。