〇先日豊里実顕地に行き、吉田光男著『わくらばの記』の資料研に参加する。
当日は『わくらばの記』の2016年1月22日の箇所を資料として出し合う。
<人の目に見えなくすることで、あたかもそれが存在しないかのように振るまうのはいかにも姑息。ずいぶんそうした姑息な行為をしてきたものである。牛乳の日付変更、食中毒の隠蔽、トラックや看板から「やまぎし」の文字を消す作業、こうした考えが過ちを素直に認めない、それと正面から向き合わない言動につながってしまった。>
など、組織がもっている隠ぺい体質に焦点が当たった。
いろいろな意見が出たが、主に供給や拡大関連に携わっている人は思い当たることがあり、その他の生産職場にいた方の中には、よく知らなかったという人がいた。この辺りは、総じて「任し合い」による、ある種の信頼にもとづくものだと思う。
学園問題も同じような状況で、その関連職種にいなかった人は、随分後から知るようになったという。
それぞれの人の子供には学園生がいたのですが、当時はその子からはあまり聞いていない人が多かった。これはわたしの子どもにも当てはまります。わたしも後から聞いてビックリすることがあった。
また、「わくらばの記」を読んでいたら、実顕地を進めている影響力のかなりある人から、そんな批判的な本は読まない方がいいと言われたそうだ。
それに対して、Nさんは「書く人も、読む人も自分の思いで見ているので、そういうのを外して向き合わないと、分からないわな」
また、Sさんは「ものを書くというのは、当然、批判的な要素が入るもので、批判的だから読むなというのは、ものを書くということが分かっていないのでは」というような発言がある。
参加して思ったのは、このように出し合って、その時の自分はどうだったのか、今の自分に引き付けてみるとどのようになるかなど、考えていく必要がある。
資料研ではそこまではいかない感じがししたが、このような場があるのはいいなと思った。
自分たちの思惑に合わせて他を意のままにしようとする、他の評価によって自分たちの行動の価値が決まるという、主体性がないどころか他を侮っていることになる。自分はどうなっているのか考えていた。
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資料研後、Mさんと話をする。
実顕地運営の主だった部門にいて進めていた私に、「何故参画を取り消して実顕地を離れたか」との問いかけがあり、その経過の話をした。
このブログなどで度々触れているが、その経過の渦中にいた人以外は、何があってそうなったのか、よく分からない人も多いかと思った。
参照:「ヤマギシズム実顕地について思うこと」 (2015年5月28日)など
Mさんによると2000年前後のかなり大勢の人が実顕地を離れた後、Mさんの中で「私意尊重公意行」の捉え方が逆転したそうである。
それまでは、「公意」が出され、それに「私意」を添わせていく、アップダウンのイメージで展開していたが、大量離脱者が出た後は、一人ひとりの「私意」があり、それを出し合う中で「公意」が形成されていくというボトムアップの方式が根付くようになっていったそうである。
その方式だと、なかなか決まらないこともあり、時間がかかるので、大きい実顕地を進めている人から、お前のところはまだそんなことをやっているのかと言われることもあるそうだ。
これは実顕地運営の根幹をなす研鑽方式の要になるところである。
Mさんは、最近雲行きが怪しくなってきたようなことを心配されていた。
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親しくさせていただいている佐貝貞夫・のぶ夫妻から、話を伺う。90歳すぎの二人とも元気で溌溂としていらっしゃった。二人の結婚(70年たつ)を経て山形から北海道根釧原野への入植、その大地の広大な広さ、除雪車などない中の雪の激しさの中、ともに入植した人たちとの助け合い、1959年の北海道特講から「北試」(ヤマギシの村)への参加、ブルセラによる飼牛の全滅、炭鉱へ出稼ぎ、その後の「北試」での立て直しと話は続いた。
福井正之氏の『追わずとも往く』は、そのような先人たちが育て上げた土台のもとで、ある程度落ちついたところへ意欲的な青年たちが参加して、その豊かな可能性を秘めた状況の体験を踏まえて展開される。