わくらばの記 病床妄語④
〈3月1日〉
抗がん剤の影響で、今朝も下痢。
放射線治療は明日で終わるが、そのあとどうなるのか、岩田医師に聞く。3日に造影剤で食道の様子を調べるが、食道の腫れが引くかどうかが問題だという。
午後から夜にかけて発熱、37・9度あった。血液検査、CT検査を受けるが、特に異常なしとのこと。抗がん剤は中止となる。
何かを書く気力なし。
〈3月2日〉
熱は下がるが、下痢は続いている。
入院1か月半ともなると、体力が落ち、思考力がにぶる。頭がボーっとして、読書スピードもぐんと落ちた。
〈3月3日〉
体調は思わしくない。吐き気とまではいかないけれど、何かむかつく感じがずっとしている。昨夜はまた37・2度、今朝は36・8度の微熱があり、体のだるさは抜けない。
造影剤検査は午前中で終わる。食道の通りが悪いとのことで、明日からまた栄養剤の補給。来週半ばに再検査するとのこと。まだ見通しが立たない。
入院も40日を過ぎると、病人がますます病人くさくなる。気力、体力が衰え、日録を書く意欲も減ってしまった。困ったものだ。
〈3月4日〉
体調はいくらか回復したが、考える力、書く力はあまりない。
〈3月5日〉
少し腰の痛みがある。腰痛体操をしておかないと、と気を引き締める。夜中、胸奥に少し圧迫感があった。痛みではなく、押さえつけられるような感じ。目覚めてからは、あまり感じなくなった。
10時に妻、娘来る。ちょうどその時、めまいがおこり、横になる。看護師さんの話では、何かの拍子に血圧が急に下がったのではないか、という。
午睡の後、めまいは解消。熱は37・1度、いくらか高い。
〈3月6日〉
夜はやはり熟睡できない。胸にわずかな圧迫感があり、うつらうつらといった状態。起きるとどうもないのだが。
自分の過去を振り返ると、ある時期まで私は歴史というものにあまり興味を持てなかった。それは戦時中の神がかり的な歴史教育が敗戦によっていっぺんに否定され、日本歴史などは学ぶに値しないと勝手に決めつけていたからである。これからは社会科学だ、マルキシズムの方法によってこそ正しい歴史認識も得られる、と思っていた。こうした浅薄な考えが、一冊の小説との出会いで覆されることになった。司馬遼太郎の『人斬り以蔵』である。
幕末の土佐藩、瑞山武市半平太が吉田東洋暗殺の廉で切腹を命じられた裏に、岡田以蔵の自白があったわけだが、以蔵が自白するまでの経緯に、半平太ら郷士たちによる毒殺未遂という事件があり、それが以蔵の自白の決意を決定づけたというのである。この小説を読んだ時に、歴史はやはり人間が動かすものだという当たり前のことがよくわかった気がした。それまでの歴史観、生産力と生産関係の矛盾が社会を動かすとする唯物史観は、人間の営みとしての歴史を一面化し、とうてい真実に迫れないものだと思えたのである。
それから司馬さんの小説を次々と読むようになった。しかし、それで唯物史観から完全に抜け出られたかと言えば、否である。いったん染みこんだ思想は、簡単には抜けない。
〈3月7日〉
昨日ほどではないが、胸やけがつづいている。熱は下がったようだ。岩田医師の話では、放射線による食道炎ではないか、という。
司馬さんの本を読み出してからしばらく、小説と史実との混同があったように思う。司馬さんは自分でも言うように、若き日の自分に宛てた手紙として小説を書いた。日本人は、昭和前期を支配した軍閥・官僚・政治家のような愚かな人間ばかりではなかったはずだとして、典型的な日本人像を幕末・維新のころの人たちから拾い上げ、また戦国期の群像の中にそれを求めたのである。しかし、小説である以上――小説でなくても書き手の見方が反映するのは避けようがないが――自分の理想像が色濃く反映している。
面白いと思ったのは、例えば司馬さんの『坂の上の雲』と吉村昭の『海の史劇』の違いである。同じ日本海海戦を描き、その経過も結果も何一つ変わらないのに(事実は変えようもないが)、そこに活躍する人間群像は全く異なるのである。司馬さんは日本の勝利に、作戦参謀の秋山真之の役割とその人間像を大きく評価するのに、吉村さんの小説には秋山の「あ」の字も出てこない。面白いと思った。
私には、一人の人間に惚れ込むと、その説を全部信じてしまう傾向がある。どうもそれに寄りかかってしまうのだ。
例えば、司馬さんの『この国のかたち』である。司馬さんは、日本を悲惨な戦争から敗戦に導いた軍部独走の根本に「統帥権」があったとして、統帥権を「近代日本が生み出した鬼胎である」と結論づけている。しかし、本当にそうかどうか。統帥権があったから軍部独裁に至ったのか、軍部が権力を掌握するために、たまたま明治憲法にあった統帥権を利用しただけなのか。すべてを統帥権にもっていっては、かえって歴史の真実から遠ざかるのではないか、とも考えられる。
〈3月8日〉
胸やけはだいぶ治まってきた。ただ、昨夜もテレビを見たあと体がふらふらした。胸やけはやはり放射線の影響らしい。次第に治まると看護師さんは言っていた。
人間は観念の虜になりながら、自分が観念に縛られていることに気がつかない。私にそれを気づかせてくれたのは、特講である。これなしに、自分が自縄自縛に陥っていることに気づくことはなかったかもしれない。
私にとって、特講で何かが変わったとか、何かが明確になったというものがあったわけではない。が、すごく楽になったのである。何かが外れたのである。その時はよくわからなかったが、後で考えると、自分の観念の枠組みがストンと外れたのだと思う。途端に世の中が明るくなり、誰とでも仲良くやれそうな気分になった。ものすごい開放感である。
しかし、これで自分の観念から自由になったわけではない。特講は初めの第一歩にすぎなかった。だから山岸さんも、特講生へのメッセージの中でこう書いている。
「これで終わりでなしに、これから研鑽生活の始まり。良かった、分ったと一応喜んでも、つぎつぎと問題がいろいろの形で現われてくる」
このメッセージは繰り返し何回も読んでいたのに、自分の中では特講の出発を特講を卒業したかのように錯覚していた。始まりを終わりと取り違えていたわけだから、観念の呪縛を逃れられないのは当然である。
〈3月9日〉
体がだいぶ楽になってきた。放射線の腫れが引いてきたのかもしれない。それにトイレの回数が少なくなった。岩田医師の話では、今日から点滴を外し、栄養剤を増やすという。栄養剤だけで水分の補給は大丈夫だそうだ。
午後、久しぶりにシャワーを浴びる。そのさい、チューブを引っ掛けてしまい、鼻から出してしまった。そのため、再びレントゲン室でチューブの入れ替え。身から出たサビとはいえ、全くまいった。
今日は考えごとは打ち止めとする。
〈3月10日〉
夜は眠りが浅い。今朝、岩田医師に確認したところ、放射線の腫れが引くまでに最低4週間はかかるという。しかも、引いても食事がうまく通過しない場合もありうるが、その場合はまた次の手を考えるという。全く先が見えず、少なくとも今月いっぱいは病院暮しがつづくことになる。管につながれたままの暮らしは人間にとって生きるに値するだろうか、とやや捨て鉢な気持ちにもなる。
私は、参画してから特講の係りをやるようになった。10年近く山岸会本部の事務局にいて、数えきれないほど係りをつとめた。また大田原に移ってからも那須特講を手掛け、韓国配置になってからは韓国でも特講や研鑽学校の世話係をやった。
この世話係体験を通してはっきり言えることは、自分の、或いは自分たちの特講の進め方は、根本的に間違っていたということである。それを一口で言えば、特講を研鑽方式ではなく教育方式で運営してしまった、ということだ。研鑽方式というのは、終わりのない旅のように、どこまで行っても結論のない「本当はどうか」の連続のはずである。しかし実際には、
「腹が立たないのが本当」
「仲良しが本当」
「一体が本当」
「無所有が本当」
と、結論に到達したところで終わりにしてしまった。鶴見さんの言う「一丁上がり」である。そのために研鑽の連続性が断ち切られ、参加者は本音と建前の乖離にさらされることになる。
「腹が立たないのが本当だと思うのに、自分は何で腹が立つのだろう」と自分を正直に調べることをせず、「腹は立っていませんよ」と人にも自分にも言いつくろう態度をとることになる。「仲良しが本当」と言いながら、陰で人の悪口を言ったりする。本音を隠して嘘を言うような、建前だらけの生活に陥ってしまうのだ。ここからは人間性の一部が失われてゆく。
これは、まさに自分自身のことなのである。と同時に、多くの人の実態でもあった。世話係自身がこの程度であれば、特講生にそれ以上を望むのは難しい。特講が研鑽生活への入り口ではなく、出口になってしまっていたのは無理もない。
特講という研鑽方式への重要な機会を生かすには、まず世話係自身が真に研鑽できる人、研鑽しようとする人になることが出発点であろう。よく「誰でもやれる」と言われたりするが、それではマニュアル方式で運営する特講もどきにしかならない。
〈3月11日〉
東日本大震災から今日で5年、復興は遅々として進んでいない。またテレビ報道によれば、復興にはかなりのバラツキがあるようだ。
ところで、自然というものをどう見るか。
一方には、自然のやさしさ、すばらしさを強調する自然信仰とも言える見方がある。また他方には、自然の恐ろしさ、残酷さを強調する見方がある。恐らく自然はたえずその両面を併せ持っているのであろう。自然が木や草を育て、川をつくり、豊かな大地や海を育てるのが事実であれば、地震や津波や火山噴火をもたらすこともまた事実である。
この自然のやさしさと残酷さという両面こそが、地球が生きていることの証拠であり、もしこれらが無くなれば、地球は月と同じ死の球体となってしまう。当然人間も生きてはおれない。だから、人間にとって大切なことは、自然との調和をはかることである。しかもそれは、人間が自然に合わせることであって、自然を人間の都合に従わせることではない。
しかし実際には、人間は自然からはみ出すことをやめようとはしない。超高層ビルの林立、アリの巣のような地下街の拡張、東京や名古屋の映像を見ていると、恐ろしさでぞっとしてくる。しかもこの地震列島の上で、安倍さんは原発の再稼働を進めている。この日本を彼はどうするつもりなのだろう。
〈3月12日〉
体調は悪くない。ただ寝ている間に、口の中がものすごく乾く。看護師さんは、エアコンのせいかもしれない、という。
朝、岩田医師と読書について少し話をする。「今は本を読む時間が全くない」と言う。それはそうだろう、毎日見ているだけで岩田さんの忙しさはよくわかる。実に細かく面倒を見てくれている。
このところ、広島の中3の男の子が自殺した問題をめぐって、連日報道が流されている。誤った入力データに基づく進路指導によって男の子が自殺したことが明らかになり、学校が詫び、市教育委員会が詫びた。
しかし、この入力データとは、一体何なのだろうか。教師はデータは見るが、生徒は見ていないのだ。過去の資料を見て、目の前の子どもと向き合っていない。死んだデータと生きた子どもと、教育の土壌は一体どこにあるのだろうか。子どもの両親は「学校には愛情というものがない」と訴えていた。
しかしこれは、広島の一中学校の問題であるだけではない。今こうした
“指導死”なるものが全国で20件以上あるという。自殺者だけで20人以上ということは、死には至らないけれども心に深い傷を受けた子どもは、その何十倍にも上るということである。今これを日本の教育界全体の問題としてとらえる見方が、どれだけあるのだろう? 一部教師の誤りとして終わらせてはならないと思う。
ひるがえってわが身を省みれば、ヤマギシにも同じような問題があった。三重県内の学園生に対して行われたアンケート調査で、「係りは全く意見を聞いてくれない」という回答がすごく多かったのである。自分たちも、子ども一人ひとりときちんと向き合わず、一方的な基準で子どもを押さえつけてきた。過ぎ去ったこととはいえ、このことは決して忘れてはならないことなのである。
今日は息子夫婦と孫が来る。K樹は医療中学「あすなろ学園」に入ったという。しばらくして、娘夫婦と妻が来る。
〈3月13日〉
体調は旧に復しつつあるが、食道がどうなっているか。機械が、一部の部品や部分から壊れていくように、人間の体もいっぺんに全体が悪くなるのではなく、部分的劣化から傷んでゆくのであろう。今週の検査結果がどう出るか、予断を挟まずに待つことにしよう。
〈3月14日〉
体調は悪くないと思ったのだが、少しめまいの兆候がある。血圧が低いのだろう。思考力も低下している。
〈3月15日〉
まだ少し頭がボケているが、体調はまあまあだ。
自分が深く何かの観念にとらわれていることを自覚するのは、普通の時にはなかなかできない。何かに頭をぶつけ、傷つき、悩んだ末に、やっとそのことに気づく。順調で正常であると思っているときには、不可能に近い。そして真に気づくには、悩みをとことん悩みぬくしかない。
私にとって一番深く悩んだのは、2000年以降の10年である。これまで村の中心で活躍していた何人かの人たちが鈴鹿に居を移し、新しい運動を始めた。それに伴って多くの人たちが鈴鹿に移動した。私にも講習に参加しないかと何人かから声がかかった。しかし、自分が十分納得しないうちに、「ここがダメならアッチがあるさ」と簡単に移り変わることなどできない。村に問題があるとしたら、それはどこにあるのか、そしてそれは何なのかを見極めたいと思った。観念の形を変えてみたところで、中身が変わることはないのだ。
私は高校卒業前後から、考え方を何回か変えてきた。しかし、すべて上っ面だけ、表層の変化だけで、中身を突き詰める作業はしてこなかった。今度こそは同じことはできない、と思ったのである。そして自分の考えてきたこと、信じてきたことが誤っていたとすれば、その誤りを見い出すだけでなく、誤りを信じ込んだ自分自身がなぜそう信じ込んでいたのかをはっきりさせねばならないと思った。つまり、考えという対象の誤りと同時に自分という考える主体の誤りをも、同時に見出すものでなければならない、と思ったのである。帽子をいくら脱ぎ代えても、頭の中身は変わらない。
そんな時に、幸運にも『山岸巳代蔵全集』の刊行が決まり、その編集にかかわることができた。本づくりの必要上、何回も何回も原稿を読んだ。その時はよく理解できなくとも、何かの折にふと山岸さんの言葉が蘇ってきて、心に深く突き刺さることがある。こうした経験を何度か繰り返しているうちに、自分が固定観念の虜になっていることに気づかされる。自分の考えが正しいと自信のある時には絶対に気づくことはできなかったことだ。人間、時に悩むことの重要性を意識させられた。
以前は悩むことは恥ずべきこと、いけないことのように考えていた。しかし、恥ずべきなのは悩みを隠し、それに向き合わないことなのだ。姜尚中氏の『悩む力』は読んではいないが、言わんとすることがわかる気がする。
「想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ、ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ」
――村上春樹『海辺のカフカ』――