広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎吉田光男さんと『わくらばの記』

〇『わくらばの記』について
『わくらばの記』(2015年12月25日~2017年4月6日)は、食道癌の宣告を契機に書き始め、2016年1月18日からの105日間の入院中に、いろいろ思いついたことをノートに取り続け、退院されてから整理して「わくらばの記―病床妄語』の記録とした。

 退院後には「ごまめの戯言」「たまゆら」とタイトルを変えて思索の過程を書き続けていった。
 今年の3月に入った頃からガンの進行が早まり、次のような便りをいただいた。

 

・(3月7日)
〈明日からまた入院することになりました。ガンの進行が早まり、肝臓に転移したものが、かなり大きくなっているようです。そろそろ〈そのとき〉が迫ってきたようです。
 この「わくらばの記」も、このへんで打ち止めということにしたい。まとまった思考が困難になってきている。集中力を持続できない。もし、何か書くことがあったにしても、それは恐らくそれは思考の断片か思いつきの域を出ることはないだろう。〉

・(3月30日)
〈退院してしばらくは、体調がすごく悪かったのですが、少し回復した感じがしたので、新たに「わくらばの記」を書いてみました。何人かの知友から、断片的なものでいいから書き続けろ、と励ましをいただき、自分で考えてみても、何か書くことが生きる力にもなるので、そうさせていただくことにしました。
 今後のことはわかりませんが、ベッドで寝ていると、言葉や概念の切れ端がふっと浮かび上がってくることがあります。そんなものを手がかりに、書き続けてみたいと思っています。よろしくお願いします。〉

・(断想)
〈このところの体の衰えはかなり急速に進んでいるように感じられます。退院してからは、本もあまり読めません。関心の範囲も自分の身の回り1尺を超えることなく、世の中の動きに付いていくことがむずかしくなってきました。
入院中、何人もの知友から、まとまったものでなくとも何か書き続けるようにとの励ましを頂き、まだ多少元気な入院初期にノートに書き綴ったものを、「断想」という名でまとめてみました。〉

 

 そのような経過があり、吉田さんと連絡を取って、それまでの記録を私家版の本にした。
「断想」のなかに、光男さんの人柄を彷彿とされるような、ひ孫さんへの手紙がある。
 これは、「なぜ、と問うことを続けている。」という『わくらばの記』の通奏基底音として一貫して流れている特徴と通じるものだなと思う。

 

〇「海くんへの手紙」
海くん こんにちわ。
わたしは みつお おじいちゃんです。
ほんとうは ひ おじいちゃんなのですが いちいち 「ひ」をつけるのはめんどうなので ただ おじいちゃんと よばせて ください。
おじいちゃんは 海くんに 二さつの えほんを おくりますが 海くんが このほんを てにするころ わたしは たぶん このよに いないでしょう。
えっ どこに いったかって?
それは わたしにも わかりません。
そこは ひとが かならず いちどは ゆかねばならない ところですが
まだ かえってきたひとが いないので どういうところか わかりません。
いまは ただ こわいような たのしいような きが しています。

 

さて この 二さつの えほんですが これは おじいちゃんが ちかくのとしょかんで みつけ たいへん かんどうしたので 海くんに よんでほしいな とおもったのですが なにしろ 海くんは そのとし うまれたばかり とうてい よむことは できません。
そしたら ひろみおばあちゃんから 4、5ねん さきの海くんにおくったら といわれ それなら おくれるな とおもい このてがみを つけて おくることにしました。
しじんの たにがわ しゅんたろうさんと えかきの ちょう しんたさんの えほん 『あなた』と『わたし』です。
あなたって だれ? わたしって だれ?
そうきかれたら きっと こう いうでしょうね。
あなたは あなた わたしは わたし
そんなこと きまってるじゃない。
しかし 海くんからみたら 海くんは わたし おじいちゃんは あなたですが おじいちゃんからみたら おじいちゃんが わたし 海くんは あなたです。
それに 海くんは いつから そこに いるんだろう。なんで そこにいるんだろう。
おとうさんや おかあさんが いなかったら 海くんは そこにいることができただろうか。
ももこ おかあさんの おかあさんは ひろみおばあちゃん ですが ひろみおばあちゃんが いなかったら 海くんは うまれることが できただろうか。
また ひろみおばあちゃんの おとうさんが この みつおおじいちゃんです。
みつおおじいちゃんが いなかったら 海くんも うまれることが できなかったのです。
おとうさんの ほうも おなじです。
おとうさんの おとうさん おかあさんが いて そのまた おとうさん おかあさんがいる。
そのさき そのさきと どこまでも ずーっと つづいているのです。
こう かんがえると 海くんは かぞえきれない ひとたちとの つながりで うまれることが できたのです。
ひと だけでは ありません。たくさんの ものや しぜんの どうぶつや しょくぶつとも つながっているのです。
海くんは けっして ひとりでは ないのです。
しかし また 海くんは せかいじゅうで たった ひとりしかいません。
なまえの おなじ ひとや かおの にた ひとは いるでしょう。
だけど 海くんと おなじ ひとは ひとりも いないのです。
たくさんの ひとに つながっている わたし だけど せかいで たったひとり しかいない わたし。

わたしって なんだろう?
あなたって だれだろう?

このえほんを よみながら いろいろ かんがえていったら いいなと おもいます。
ながい てがみに なりました。
では げんきでね。 さようなら。

 

【参照資料】
※海くんに贈った二冊の本は、とても楽しい素敵な絵本です。
 谷川俊太郎・文、長新太・絵『あなた』(ランドセルブックス、2012)
 谷川俊太郎・文、長新太・絵『わたし』 (かがくのとも傑作集―わくわくにんげん、1981)

〇お孫さんとの対話から(「たまゆら」2017年1月2日)
 この日息子一家が来てくれた。しばらくみんなで話し合っているうちに、孫の一樹から鋭い質問が飛び出してきた。こうした真正面からの問いかけには、ごまかしたり、はぐらかしたりはできないなと思い、こちらも真剣に答えることにした。

 

――年を取って体が衰えても筋肉は鍛えられるというから、筋肉ムキムキになる運動をしたらどうか。
「皮膚がたるんで皺だらけの体で、筋肉だけ鍛えることはできそうもない。鍛えることよりも、できるだけ衰えないようにするための足腰の運動はつづけている」
 ――もっと長生きしたいとは思わないか。
「生きられるだけは生きようとは思うが、より長くとは考えていない。薬や生命維持装置で、生きる時間を少しでも長くとは考えていない」
 ――もっと幸せになろうとは考えないか。
「その‟もっと幸せ”というのは、どういうことだろうか。幸せに普通の幸せ、もっとたくさんの幸せ、といった区別があるだろうか。幸せにAランク、Bランクという区別はないのではないか。もしあるとすれば、前のは本当の幸せではなかったということになる。幸せを感ずる中身は日々違っているとは思うが、その時その時を幸せに生きることが大切だと思っている」


 ――じゃあ、幸せって何か。
「その質問に全部答えることは難しいが、最近考えたことを言うと、自分を知るということが大事な一歩かと思っている。宇宙の話を聞くと、宇宙空間に存在する物質やエネルギーはほとんどが未知なるものだと言われている。その90パーセント以上は、不明な物質やエネルギーで、それを暗黒物質とかダークエネルギーと言っている。同じように、人間の心の宇宙もわかっていない。つまり、人は自分が何者であるのかわからぬうちに、一生を終えることになる。それにもかかわらず、みんな自分は自分だとわかったつもりになっている。じゃあ、何を以て自分だと思っているかというと、自分以外の何か――例えば財産とか名誉とか地位とか知識とか――そういうものが自分であると思っているのではないか。しかし、そうした自分以外のもので自分を幸せにはできない。それでは、おじいちゃんは自分がわかっているかと聞かれると、とうていわかっているとは言えないけれども、わかっていないことがわかったとは言うことができる。だから、自分の心の中を旅する努力をしているが、それが楽しい。そこに生きがいを感じている」

 そんな話をして、多分よくはわからなかったと思うが、真面目に答えたことの何かは伝わったかもしれない。
(『わくらばの記』「たまゆら」①2017年1月2日)