〇通哉さんの偲ぶ会にはぜひとも出席する予定でいましたが、体調が思わしくなく、もしかしたら出席できないかもしれないと思い、急遽心に残ることのいくつかを書き記してみました。
通哉さんのここ数年間の活躍ぶりについては大勢の方々がご存じのことで、私が語るべき余地はありませんが、『山岸巳代蔵全集』の編集に共にかかわらせていただいたことで記憶に残ったことを、少しだけお話しておきたいと思います。
全集第一巻の刊行が2004年の5月、資料編3巻を含む全7巻の刊行終了が2011年7月ですから、刊行準備期間を含めると約8年間ご一緒に仕事をさせていただいたことになります。山岸先生の書かれたもの、話された記録等を集大成しようという声は前々からありました。しかし、さまざまな事情で手つかずのまま放置されていました。それが2001年9月に「山岸巳代蔵生誕100年記念」の集会が春日山で開かれたさい、総力を挙げて全集を刊行しようと決まったのです。その事業を強く提唱されたのが奥村通哉さんでした。全集のための資料収集、真筆かどうかの判定、校閲等、刊行までには大勢の協力が必要ですし、山岸先生を知る現存する人たちを探し出し、確認することも欠かせません。そして何よりも、実顕地、福里哲学研究所、それに鈴鹿のアズワングループの三者が力を合わせることが不可欠です。なにしろこの生誕100年記念集会が持たれた前年の2000年12月に、鈴鹿グループが実顕地を離れたばかりですから、協力体制の構築には通哉さんのような中立的な存在が欠かせませんでした。
通哉さんは、1959年の山岸会事件前後から、山岸先生の秘書的役割を続け、重要な文書の口述筆記などを受け持っていました。事件後に公表された「山岸会事件雑観」など重要な文書のかなりの部分は、口述筆記で通哉さんが書き留めたものです。
これらの文書を、書かれた時期や事柄別に全集に再録してゆくわけですが、原本の行方が分からぬものがほとんどです。印刷されたもの、手書きされたもの、ガリ版刷りのもの、また各種新聞などさまざまな資料があって、写し違いや印刷ミスなどもかなり含まれています。何が本当か、その根拠の判定には通哉さんの推測や判断が大きな力になりました。
とにかく通哉さんの校閲ぶりは徹底していました。私などがもうこのへんで良いのではないかと諦めかけているときでも、通哉さんは決して手を抜くことはありませんでした。一字一句もおろそかにしないのです。まさに「本当はどうか」を地で行く徹底ぶりです。
全集刊行事業が始まって最大の収穫は、事件後主に津の三眺荘で開かれた全九回に亘るヤマギシズム理念研の速記原本が発見されたことです。理念研の一部は、通哉さんから杉本利治さんが借り出して写しとったものが実顕地にありましたが一部にすぎず、しかもごく少数の人たちしか目にしておりませんでした。その後原本の行方がわからず、通哉さんも「あるいは福里にあるのではないか」「あるいは杉本さんから返されていないのではないか」など、可能性のあるところを探し回っておりましたが、最後の最後に通哉さん宅の古い土蔵の中にしまいこまれているのが発見されました。そのダンボール箱には、さらに「正解ヤマギシズム全輯」の覚書など貴重な遺稿やメモ類も含まれていました。こうして漸く全集の完結をみることができたわけです。
この8年という時間を共にしたあいだ、私がもっとも感心させられたのは、通哉さんの仕事への誠実な取り組み方でした。山岸先生存命中、長時間にわたる研鑽会のあいだ、山岸先生の発言の一字一句を忠実に写しとっていること、これ無しには全集は極めて不完全なものになっていたはずです。速記術を身に付けているわけではありませんから、時には脱線し時には冗談にそれる先生の発言を写しとることは容易なことではなかったと思います。そしてまた、40年以上経過した今、再びそれを復元することは並大抵なことではありません。刊行委員の中でも最長老の通哉さんがそれをやり遂げてくれたおかげで、ようやく全集の刊行が可能になったのです。全く頭が下がります。
全集刊行から4年半が経過した今年までに、刊行に携わった何人かの方々が亡くなりました。福里美和子さん、川口和子さん、そして奥村通哉さん、また直接刊行にかかわらなかったとはいえ、いろいろ話を聞かせてくれた奥村きみゑさんも旅立っていかれました。それを思うと、これが山岸先生の遺稿を世に残す最後の機会だったし、私たちは危うくそれに間に合ったと言えるのではないかと思います。
ところで、旅立たれた通哉さんは、残された私たちに一番何を望んでいるのだろうか、と考えることがあります。恐らく通哉さんは「全集から山岸先生の意思を汲み取って研鑽し、みんなでそれを実現してほしい」と願っているのではないでしょうか。しかし、実際のところ全集は机上に積まれたままで読み返す人はほとんどいません。私ももちろんその一人であり、実に寒心に耐えないところです。山岸先生は、岡山での死の床で「本当の本当は通じぬままに死んでいくのかな」という言葉を残し、またその直前の「第9回理念研」の席上では、次のように語っています。
「どうもはき違い、聞き違いが多いわね。正確に聴き取ったという人は一人もない。みな、謂ったら誤解や。それがずいぶん邪魔するということね。『わしはあの人をこう聞いた』といっても、言った人の気持ちと同じということは絶対ない。どんな澄み切った鏡に映しても、逆さに映るのやぜ。……せめて同じ方向の誤解ならましやけど、全く逆方向の誤解が相当あるね。その人が喋ったら、『自分の考えを言ってる』と、これ以外にないやろね。……誤解が全部であり、曲解が相当あり、逆解釈もずいぶんあるということでかなわんが。」(全集第6巻318頁)
「誤解が全部であり、曲解が相当あり、逆解釈もずいぶんあるといこと」。これは、当時の会員について言っただけの言葉ではなく、恐らく今の私たちに対しても当てはまる言葉だと思います。またこれは、先生と会員(実顕地メンバー)のあいだだけではなく、人と人とを隔てる深い溝、言うことと聞くこととのあいだに横たわる越えがたい懸隔をも意味しているように感じられます。こういう懸隔、溝を越えて、人と人が共同性を生み出すには何が必要なのでしょうか。恐らくそれは、通哉さんが強調して止まなかった《研鑽》にあるのではないかと私は思っております。そして、単なる話し合いでも検討でもなく、研究やディスカッションやディベートでもなく、幸福社会の生命線とも言うべき真の《研鑽》とは何なのかが私たちに問われているのだと思います。
2015年12月2日 吉田光男