広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎気が置けない仲間との交流(1)

〇あれはどういうことだったのだろう
 ​ 25年余所属していたあるコミュニティの仲間と寄る機会があり参加した。
今でも交流をしている人、10数年ぶりにお会いする人、活動を共にしたことのある人、ほとんど接点のなかった人、感覚的に距離を置いていた人、身近だった人など10人程の集いだった。

 はじめあったとき、どの人にも懐かしい思いが湧いてきた。

 特殊な団体に共に長くいたこともあり、過去と現在の活動拠点の近い遠いに関わらず、同じ釜の飯を食ったという以上に、共感を伴うような暮らし方もあったのだろう。
大人に限らず、その頃の子どもたち、青年(今は30代、40代)の人たちの動きを見ていても、家族のような交流を重ねているケースも度々聞く。

 1日目は、そのコミュニティを離れた経緯から、それぞれの現況を出すなかで交流を深めていき、2日目の晩に、そこで活動していた青年、今では40代半ばで活躍している人たちも来てくれて、それぞれの現況やコミュニティについての思いを聴かせてもらった。

 その過程で、様々なことを忌憚なく話し合えて、二日間程の間に、どの人もグッと身近な存在になっていた。

「気が置けない」という表現がある。気づかいしなくてよい、という意味であるが、こちらのあり方にもよるが、そのような間柄になるのは、なかなか容易ではないと思っている。

 適度な距離を保つことは大事だが、遠慮気兼ねがほとんどなく、話を聴かせてもらい、自分のことも、滑舌が心もとないがつまらぬ気兼ねもなく出したくなり、気にかかっているが、ほとんど人に出していないようなことを出していた。

 ずれた話には柔らかく待ったをいれたりして、わだかまりや不愉快さは一切残らない。残ることをだれも望んでいなかったと思う。

 課題として、自分にまつわることを話すとき、自分を正当化するような傾向が意識的・無意識的に関わらずあるので、そのことには充分に自覚しておきたい。

 また、記憶というには、不確かな曖昧なものであり、実際にはなかったことにより歪められ、その信憑性には、程度の濃淡はあるにしても、疑問符をつけておきたいと思っている。

 一方、過去の事実よりも現代のその人のとらえ方の方が、より実際の真相に近いことがあるし、むしろ、現在のその人にとっては、切実なとらえ方になる。不正確さを指摘するより、その記憶の持っている、エネルギーや豊かさにより強く反応していきたいと思っている。

 様々な考えさせられることもあり、今後につなげていきたいと思っている。

 

【参照資料】
※ここでは長田弘の記憶についての断章から2つ取りあげる。
〇「記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの現在の土壌となってきたものは、記憶だ。
 記憶という土の中に種子を播いて、季節の中で手をかけてそだてることができなければ、ことばはなかなか実らない。じぶんの記憶をよく耕すこと。その記憶の庭にそだってゆくものが、人生とよばれるものなのだと思う。(中略)
 思いをはせるのは、一人のわたしの時間と場所が、どのような記憶によって明るくされ、活かされてきたかということだ。(『記憶のつくり方』「あとがき」晶文社 1998より)

 

〇ひとの記憶のなかにある「もし」。

 その確かめようもない「もし」という記憶がしばしばひとの人生のなかの空白をみたすのは、記憶という知覚の官能のなかでは、「ありえたもの」と「ありえないもの」とがたがいに浸透圧をもつために入れかわりうるからだ。
 ひとのもつ記憶は、「もし」によって癒され、「もし」によって傷つけられている。(中略)
 記憶というのは「あったこと」の記憶がすべてではない。ひとの記憶は、しばしば「あったこと」の記憶のなかにはいりこむ「なかったこと」によって歪められ、確かめようもない「なかったこと」によって不確かにされている。だが、たとえ事実をたずねて、不確かな記憶を確かめようとしても、直面するのは、奇妙なことに真実ではない。事実を確かめようとすればするほど、確かに記憶は活性化され、鮮やかになる。しかしそれは、それまでの不確かな記憶にかけちがい、対立して、鮮やかになるにすぎないのだ。確かめれば確かめるほどいっそう確からしくなりながら、同時に、確かめれば確かめるほど「なかったこと」がはいりこんできて、いっそうあいまいになってゆく。正しさをもたない真実が、記憶だ。密着すればするほど肉体は見えなくなって幻想と化す性交のように、密着すればするほど時や場所という肉体のない幻想に化してゆくような記憶の官能性。正しさがすべてではないだろう。ひとのもつ「いま」のなかには、しばしば人生の補償としての記憶がはいりこんでいる。(長田弘『感受性の領分』岩波書店、1993より)