広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎自分の才覚で生きる 

〇知人の近況に触れて(ヤマギシの村で暮らして)
 知人のHP「ビジョンと断面」(現在閉じられている)の最近の投稿、R氏の「他人任せから、自分の才覚で生きる」を読んで、自らの特異な体験の記憶を淡々と振り返り、冷静に掘り起こしていく語り口に感じるものが多々ありました。

 その特異な体験に関して私にも重なるものがあり、別の機会に触れてみます。ここでは、自らの体験を語るときの、その記憶の掘り起こし方について考えてみます。その人が自己同一性を保っていられるのは、心身のもっている自伝的な記憶によるものです。

 それは、想起する際の対人的、社会的、文化的文脈によって容易に変容し、再構成されます。その記憶のいくつかは繰り返し想起され、その人のもつ気持ちや価値観に添った形で書き換えられます。つまり、単なる事実としての記憶ではなく、現在の自分に納得するように解釈し意味づけられた物語ともいえます。

 

 この辺りのことについては、3月14日のブログの中で、精神分析家のJ・ラカンの「わたしを他者に認知してもらうためには、わたしは『かってあったこと』を『これから生起すること』をめざして語るほかないのである。」などに触れてあります。

 しかし、過去の出来事をありのまま正確に語ることは無理であるし、その必要性はあまり感じません。

 私たちが心地よく生きていくうえで必要なのは、過去の事実の正確な掘り起こしではなく、現在への適応と、将来への展望に役立つように願っての過去の記憶の再構成です。

 また、真摯に振り返っている限り、もとの情報と違ったものになるわけでなく、現在のその人にとっての過去の事実認識だと思います。(※意図的にあるいは無意識的に事実と全く違ったことを語ってしまう人もいます。)

 そのためにも、自分について振り返って書く(語る)ときに、①自分の記憶が不確かであるという自覚、②自分のしていることを客観視していくことの誠実さ、③多くのものごとには、光と影、表と裏、メリットとデメリットがあり、多角的に見ていく複眼的視点が大事になってきます。

 記憶には、すぐに想起できることもあり、普段は無意識の領域に潜んでいて、あるとき突如思い出したりします。体験をじっくり書く(語る)ときの面白さは、そのようのことの出会いにもあるといえます。

 最初に触れたR氏の論文に、誠実さや複眼的な視点を覚えて印象的でした。R氏にとっては、不本意なY村の暮らしでも、養豚に携わった体験、俳句を始めてから接した自然への関心、一緒に暮らした仲間との触れ合いなどにも多くのことを感じたようです。そして何よりも、子どもや奥さん、ご両親や兄弟、昔の同僚や仲間、知人のライフワークであるロシア語でお世話になった人など、実に多くの人に愛され、支えられてきていることを思いました。おそらく知人も多くの人を支えてきたのではないでしょうか。

 様々な困難をのりこえ、現在穏やかに生きていらっしゃることを感じさせてくれました。