広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎『わくらばの記』資料研に参加して

〇先日豊里実顕地に行き、吉田光男著『わくらばの記』の資料研に参加する。

 当日は『わくらばの記』の2016年1月22日の箇所を資料として出し合う。

<人の目に見えなくすることで、あたかもそれが存在しないかのように振るまうのはいかにも姑息。ずいぶんそうした姑息な行為をしてきたものである。牛乳の日付変更、食中毒の隠蔽、トラックや看板から「やまぎし」の文字を消す作業、こうした考えが過ちを素直に認めない、それと正面から向き合わない言動につながってしまった。>

 など、組織がもっている隠ぺい体質に焦点が当たった。 

 

 いろいろな意見が出たが、主に供給や拡大関連に携わっている人は思い当たることがあり、その他の生産職場にいた方の中には、よく知らなかったという人がいた。この辺りは、総じて「任し合い」による、ある種の信頼にもとづくものだと思う。

 学園問題も同じような状況で、その関連職種にいなかった人は、随分後から知るようになったという。

 それぞれの人の子供には学園生がいたのですが、当時はその子からはあまり聞いていない人が多かった。これはわたしの子どもにも当てはまります。わたしも後から聞いてビックリすることがあった。

 

 また、「わくらばの記」を読んでいたら、実顕地を進めている影響力のかなりある人から、そんな批判的な本は読まない方がいいと言われたそうだ。

 それに対して、Nさんは「書く人も、読む人も自分の思いで見ているので、そういうのを外して向き合わないと、分からないわな」

 また、Sさんは「ものを書くというのは、当然、批判的な要素が入るもので、批判的だから読むなというのは、ものを書くということが分かっていないのでは」というような発言がある。

 

 参加して思ったのは、このように出し合って、その時の自分はどうだったのか、今の自分に引き付けてみるとどのようになるかなど、考えていく必要がある。

 資料研ではそこまではいかない感じがししたが、このような場があるのはいいなと思った。

 自分たちの思惑に合わせて他を意のままにしようとする、他の評価によって自分たちの行動の価値が決まるという、主体性がないどころか他を侮っていることになる。自分はどうなっているのか考えていた。

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 資料研後、Mさんと話をする。

 実顕地運営の主だった部門にいて進めていた私に、「何故参画を取り消して実顕地を離れたか」との問いかけがあり、その経過の話をした。

 このブログなどで度々触れているが、その経過の渦中にいた人以外は、何があってそうなったのか、よく分からない人も多いかと思った。

 参照:「ヤマギシズム実顕地について思うこと」  (2015年5月28日)など

 

 Mさんによると2000年前後のかなり大勢の人が実顕地を離れた後、Mさんの中で「私意尊重公意行」の捉え方が逆転したそうである。

 それまでは、「公意」が出され、それに「私意」を添わせていく、アップダウンのイメージで展開していたが、大量離脱者が出た後は、一人ひとりの「私意」があり、それを出し合う中で「公意」が形成されていくというボトムアップの方式が根付くようになっていったそうである。

 

 その方式だと、なかなか決まらないこともあり、時間がかかるので、大きい実顕地を進めている人から、お前のところはまだそんなことをやっているのかと言われることもあるそうだ。

 

 これは実顕地運営の根幹をなす研鑽方式の要になるところである。

 Mさんは、最近雲行きが怪しくなってきたようなことを心配されていた。

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 親しくさせていただいている佐貝貞夫・のぶ夫妻から、話を伺う。90歳すぎの二人とも元気で溌溂としていらっしゃった。二人の結婚(70年たつ)を経て山形から北海道根釧原野への入植、その大地の広大な広さ、除雪車などない中の雪の激しさの中、ともに入植した人たちとの助け合い、1959年の北海道特講から「北試」(ヤマギシの村)への参加、ブルセラによる飼牛の全滅、炭鉱へ出稼ぎ、その後の「北試」での立て直しと話は続いた。

 福井正之氏の『追わずとも往く』は、そのような先人たちが育て上げた土台のもとで、ある程度落ちついたところへ意欲的な青年たちが参加して、その豊かな可能性を秘めた状況の体験を踏まえて展開される。

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 ※福井正之さんは以前のブログ「反転する理想」に、吉田光男『わくらばの記』を、ご自分に引き付けながら考察した記録があり、本人の了解のもとに、順次掲載していく。NOは掲載時のままにした。

 福井正之(41)吉田光男さんの逝きて「逝かざるもの」

〇4月30日吉田光男さんが逝去されました。享年85歳。

 吉田光男さんとの最初の出会いは、『天真爛漫』(ヤマギシズム出版社1980)での彼の著述からでした。そこで巻頭に紹介されていたミヒャエル・エンデの『モモ』のことと、楽園村の記録が私にはとても斬新なものでした。それは当時の世界文学、思想の頂きから発想しながら、楽園村の意義に及ぶもので、そのスケールの大きさとそれによる普遍的なリアリティ― は、ヤマギシにもかなりの人物がいると知らされました。しかしそういう発想はその後のヤマギシからどんどん失われていったものです。

 

 その後吉田さんとの接点はほとんどなかったのですが、私のジッケンチ離脱後、彼の元学園生の「個別研」体験手記に触れての論考で、さらに近時の『わくらばの記』の中で、私はふたたび彼と出会えた感触がありました。彼のスケールは依然として健在でした。ただ彼の思索の場がジッケンチであり続けたことが、私にとってなぜそれは可能なのか不思議でもあり、ある種の危惧と驚異にもなっていました。彼の逝去の報を受けて、私にもっとも鮮やかに想い浮かんだのはそういう場の選択の違いでした。

 

 なぜならそれは私にはできなかったことです。そこは私には「金は要らないが、無理暴力のある」集団であるのみならず、「沿う・合わせる」の自縛的な自己拘束とそれによる思考停止の場でもありました。私がそういう「ジッケンチ」を離れるしかないと断念した地点で、吉田さんはそこに踏みとどまったのです。それはまた吉田さんの表現によれば「手垢のついた」言葉の世界であり、あらゆる理想反転の問題群に彼は決して盲目ではありえなかったはずです。事実『山岸巳代蔵全集』の編集にも関わった吉田さんは「何だこれは・・・山岸さんの言うことと実顕地でやってきたこととはかなり違うじゃないか」と感じられたのです。

 

 その間の軌跡を、吉田さんは「2000年からの10年」と総称しています。私には彼がその間「実顕地」というものの真髄を模索しながら「けんさん」の考え方を生き抜いてきた人として浮かび上がってきます。ただそれはいわゆる既成の研鑽会のことでなく、「ことば」の真実を確かめ確かめ、「自分の内部に掘り下げた深さだけ、外に向かって届く距離が長くなる」(論考「手垢の付いた言葉」)という発想に基づくものでした。それこそが、吉田さんがそこに在ったことの唯一の「希望」であり、自己「けんさん」であり、「実顕」であったと思えてなりません。

 

 ただその志の深さと困難さは、とうてい私の想定に及ぶところではなかったようです。『わくらばの記』の始めの部分で、吉田さんは辺見庸の『1★9★3★7』に触れ、

 

「これを読むと、自分が書いている〈学園問題〉についての手記は、チンケで底が浅く、とうてい書き続けることができなくなった。もっと自分に向き合わなければ、書く資格も意味もない。辺見庸は、『なぜ』と問うことを続けている。物事の重要性は、説明や解明にあるのではなく、問うことであり、問いつづけることの中に存在する。説明、解明、解釈、理論づけ、・・・・・・それらはそれ以上の究明を放棄することの弁明に過ぎない。」

 

 この記述は私には衝撃でした。こうまで書かれている吉田さんには、ある覚悟のようなものが滲みだしています。私はこの部分を読んで、これはキツイ、自分には無理・・・と躊躇しながら、いつしかそこから離れていたようです。これまでどこからもジッケンチや学園についての問いかけが表立って見えない状況では、そのレベルよりはそのこと自体への言及、解明、理論づけに意味があると考えてきたのです。

 

 私はジッケンチから離れ、まず自分の感覚とアタマで考え抜いてみること、そしてそれを書き表してみること、にずっとこだわってきました。「ジッケンチとは何だったのか?」「自分とはこの世の中で何ものなのか?」と。それは自分への向き合いとしてキツイことではありましたが、他方救いや歓びもありました。そしてそれはジッケンチの外だから可能になった営みだとずっと考えてきたのです。しかし吉田さんはまさにその誰しもそこに流され同調していくしかない環境のただ中で、ずっと独自の思索を絶やすことはありませんでした。

 

 今私は吉田さんの逝去に直面し、これまで通りの自分でいいのかどうか、はたと立ち止まっています。必要なのは、というより求められているのは、いや自分が求めつつあるのは、できるかどうかは別に、吉田さんのような問いかけの深さだと思います。いいかえればその場は、(吉田さんだからいえるのかもしれませんが)どこでもよかったのです。しかもこの思いは、すでに逝去された吉田さんのおそらく「逝去しようのない」、これからもますますその輝きを増すであろう志しを、点火していただいたような感覚でもあるのです。

 

 なにかしら途轍もなく恥ずかしくなりそうなことを書いているような気もします。「志し」なるものは私には、かつて嫌悪に襲われ放棄したと思ってきた<理想>や<理念>に付き物の言葉のようでしたから。でも私はすでに吉田さんのおかげで「百万羽子供研鑽会」のことばが蘇っています(「元学園生の手記を読んで」吉田2013/10より)。

 

「研鑽会は、先生や大人の人、みんなに教えてもらうものではありません。また、教えてあげるものでもありません。自分の思っている考えをそのまま言って、間違っているか、正しいか、みんなの頭で考えます。ですから、先生が言うから、みんなが言うから、お父ちゃんが、お母ちゃんが、兄ちゃん、ねえちゃんが言うから、するから、そのとおりだとしないで考えます。」

 

 これは山岸さんが書いたと言われている子ども向けの研鑽資料です。しかも大人でもこのように実践されたことはほとんどないように記憶します。しかしこれこそ「けんさん」というものの原型、本領であり、その前提としての「自己けんさん」は不可欠だと考えます。その一方法として書くという営みは欠かせないものであり、なかんずく吉田さんの思索の記述は「後世への最大遺物」だと感じられてくるのです。

吉田さんの冥福を祈ることは、私には彼のこの志と覚悟をどこまで引き継げるかにかかっていると考えるものです。

(2017年「子どもの日」に)