広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎『追わずとも牛は往くー労働義務のない村で』の出版について

〇知人の福井正之さん執筆の小説『追わずとも牛は往くー労働義務のない村で』が4月中旬ごろに出版されるとの連絡がある。

 自費出版の場合、流通や販売など出版後がいろいろな意味で大変だ。できるだけ協力していきたいと思っている。

 

▼自分なりに、出版に至るまでの経過を簡単に振り返ってみる。

・昨年11月中旬からFacebookやブログに、本人にとって、その暮らしが好きであった「北試」(ヤマギシの村)の体験をもとに、40年ほど過去の記憶をたぐりながら、湧き出るままの「北試」の思い出話(23)〈哀惜 ! 労働強制がなかった「村」〉の掲載が始まる。

・そのみずみずしい体験から紡ぎ出される文章力や、「北試」を参考にした小説上の「村」の暮らしに着目した人たちから、種々のコメントが寄せられ、そこから出版化の要請が立ち上がる。

・生身な心からの声に促され、それ以前全く考えもしなかった「北試」の体験をもとにした「本」にしようという気になる。

「この間、Facebookやブログで接してきた人々の心がそうさせたというしかない」と語っている。

・その人々の心あるコメントやアドバイスに呼応しながら、書き進めるに従って認識が深まっていくようになっていったと思われる。

・小説のタイトルも紆余曲折しつつ『追わずとも牛は往くー労働義務のない村で』となっていく。

・このタイトルが本文の肝になっているようだ。

・また、著者の40年ほど前の「北試」の体験をもとに展開されているが、人間集団のあり方、および、人と人との生身の人間としての心の交流とは、という視点が一つの「核」となっているのではないか。

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 その経過は11月中頃からの著者のFacebookやブログ「わが学究 人生と社会の〝機微〟から」 に掲載されている。http://blog.livedoor.jp/chalk27/

  Facebookには、いろいろな方からコメントが寄せられ、それに応じた著者の息吹が感じられる。ふたつあげてみる。

・( 12月17日)

Yさんのコメント: こういう文章には、遠い過去のものであっても、体験の厚みからくるみずみずしい感性がこもるものですね。まさに哀惜が伝わってきます。北試の世界が、あの時代、若者の憧憬にもなっていたことが、あの時代の著述に今も残っていること、やはり一つの重要な歴史です。当時、教師を辞めた野本三吉は「いのちの群れ」に、こんなことを書いています。

 「北試の人びとは、北海道の土に自ら還ることが、最も自然な姿なのだということを知っている。土と人間はもともと一体であり、無数の死者によって大地が形成されていることも知っている。北試には単なる共同生活体への興味を越えた、ある種の前衛的なパイオニアとしての興奮も感じさせる。それはあくまで理念を固定せず、北試という冒険の中でとらえようとしている姿勢そのものの中にあるものだろう。」

福井正之 :ううむ、Yさん核心に触れてきますね。ぼくは野本さんのものはあまり読んではないのですが、これはまさにぼくの現在の境地に響いてきます。ぼくはいわば理念的な詮索に飽き飽きして、それでもヤマギシから離れられないとしたら、北試への哀惜感しかなかった。その正体としたら、いっぱい辛いこともあったけど、それも含めて好ましかったという印象の強さです。それはずばり人間の根源性への感度であり、その主体は大空と大地と牛であり、その中に翻弄されながらなんとか学び育てられてきた「私」、という感覚でした。だからこそ記憶に残ったのでしょうね。2005年にそれを初めて記述しようと志した時にはメモ類は何もなかったのです。(実顕地のことは忘れたい、思い出したくないことも多かったのですが、かなり長い間強いてこだわり続けてきました。)それとこれまで一応タイトルに決めてきた「働かざる者食ってよし」を改めることにしました。それも今推敲に集中しつつある私からすれば「せまい」と感じてきたからです。

 

・(1月1日)

Kさんのコメント: 福井さんが出版を決意されたこと、うれしく思います。ヤマギシ体験は、よくも悪くも、後世に伝えるべき貴重な体験と僕は思っています。そして百人いれば、百人の体験談があってよいと。応援しています。

福井正之: まったく同感。「ヤマギシ体験」と一括されてしまわない私、私・・・でしょうね。