広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎吉田光男『わくらばの記』(3) 

わくらばの記 病床妄語② 

 〈2月1日〉

 消灯時間が早いために、朝早く目が覚めてそのあと眠ることができない。ベッドの上でさまざまな想念や妄念が飛び交う。

 ところでSさんの「そんな子はいませんよ」という答えが事実に反していたことは、だれも否定できないだろう。問題は「そんな子はいない」という考え方の中に、何が潜んでいたのか、そしてそこからどんな考え方が芽生えてしまうのか、ということである。

 そんな子はいない→そんな子はいてはならない→そんな子の存在は許されない。

 こうして次第にエスカレートする強制力容認の考え方が生まれてくる。私たちはこうした誤った見方・考え方から、子どもたちに無言の圧力をかけ続けてきた。学園の世話係りの多くが、子どもたちに直接の暴力を振るったことも、後になって次第に明らかになった。子どもたち一人ひとりの違いを見ようとせず、子どもを一律に扱う学園のあり方の根っこの部分に「そんな子はいない」という考え方が潜んでいたことを深く反省しなければならない。

  鼻から胃へ通した管が詰まる。一度抜いて新しいのと取り換える。痛くもあるし、気持ちも悪い。ハナハナ迷惑なことではあるが、栄養補給のためともあればやむお得ない。 夜、T美さんから電話があった。

 

〈2月2日〉

 学園のことを考えると、もう一人、Kさんに触れざるをえない。Kさんが村を去ってから書いた本に『ヤマギシズム学園顛末記』がある。私は人に借りて走り読みしただけで詳しい内容は覚えていないが、どうも自己弁護に走りすぎている印象が残っている。要するに、自分が正しい提案をしても、その意見が上層部に通らないことが多かった、というような内容だったと記憶している。もちろん、そういうことはあっただろう。が、自らの学園世話係としてのあり方に真摯に向き合わないかぎり、学園問題の本質に迫ることはできない。

 私がKさんで覚えていることは、学園代表としてよく全国講演に飛び回っていたころのことである。テーマは「子どもを叱る」ということであった。最近の親は子どもを甘やかすばかりで、叱ることができない。叱ることのできる親になることが大切だ。大体そういう趣旨であった。

 そこから学園の親に「子どもを叱る」というテーマが出され、家庭研鑽で「叱る」が実践された。今から考えれば笑い話のようなものであるが、このテーマを受けて親たちは一生懸命子どものアラを探して叱ったりしていた。

 こういう考え方から、Kさんは次に「分類の子育て」という考え方を打ち出し、親と子は異う、子は人生の先輩である親の言うことを素直に聴くこと、そして子どもの進路は親が決めるのが本当、という考え方を推進した。

 こうした考え方とその強制が、どれほど子どもの心を傷つけ歪めたか、また反発を招いたかは計りしれない。

 しかし、こうしたことはkさんや学園中枢部の人たちの問題であるだけでなく、私たち村人全員の問題なのである。学園や本庁の打ち出す方針を無条件で信じ込み、自らの頭で考えようとしない、主体性のない自分たちの生き方をこそ、深く反省しなければならない。

 

〈2月3日〉

 利尿剤のおかげで、夜中でも2時間おきに目を覚ます。そのため頭が少しボーっとする感じ、まさに夢か現かといった暮らしである。ただ、今のところ痛みが全くないので助かる。

 今思うと、半年くらい前から夜中に心臓のあたりにうすら寒い感じがあり、何か変だなと思っていた。しかし昼間は全く異変を感じなかったので気にしなかったが、この頃からがん細胞が動き出していたのかもしれない。 

 学園のことを考え始めると、あれこれ思い出すことがある。その一つに「赤えんぴつ」という文書がある。あれは、私が95年に韓国から帰って成田実顕地の造成のあと、2度目の大田原配置のときだったと思うから97、98年ごろのことだ。調正所に学園事務局から「赤えんぴつ」という文書が送られてきた。中身は高等部生の作文に誰かが朱筆を入れ、「これは良い」「ここはこう直したらいい」「これはもっと考えるべきだ」等、細かいチェックが入った文集である。

 読むと、どの作文も金太郎飴のように一律で、書き手である子どもたちの心が全く表れていない。検閲者の目をよほど気にしない限り、子どもがこんな作文を書くはずがない。「なんだこれは!」と思ったものの、その時はそのままやり過ごしてしまった。

 しかし、3年前、M・Iさんという女性の手記を読んで、当時の事情が鮮明になった。彼女は高等部生時代に、服の購入提案で不満を述べたことから「反抗的だ」と批判され、個別研の対象になった。2週間ほど4畳半の狭い一室に閉じ込められ、毎日反省文を書かされたという。ところが何を書いても認められず、「早く出してもらうには、何を係りの人に言えばいいのか」毎日そればかりを考えていたそうだ。

 これなどは、もう教育とは無縁な強制・強圧にほかならない。「世界に唯一の学園」と銘うち、あれほどわれわれ参画者、会員、活用者、そして一部教育関係者の期待を集めた学園が、このような内実のものであったかと思うと情けなくなる。

 ただ、それにもかかわらず、学園出身者のかなりの部分が、仲間同士の結束・連携の中でたくましく育っていることを知ると、救われた感じになる。

 

〈2月4日〉

 夜中、また鼻の管がつまった。またも管の入れ直しかと思うと、ゲッソリする。

 「きれいは穢い、穢いはきれい」

『マクベス』冒頭の魔女たちの言葉。昔、若いころに読んだ時は、悲劇全体を暗示するこの言葉を何も思わずに読み飛ばしていた。善と悪、美と醜を二分して満足していた私の頭には、何の印象も残さなかったのだ。しかし、いま読み返すと、シェイクスピアの言葉は一つひとつが生きている。そこに時代を越えて読み継がれる理由がある。

 言葉ということで思い出すことがある。98、99年頃のことだったと思うが、春祭りに日テレのカメラが入り込み、学園の親たちにインタビューしていた。

「学園に子どもを預けるのはどうしてか」という質問を繰り返すアナウンサーに、親たちが異口同音「子どもは群れで育つ」と答えていた。どの親もどの親も、みんながみんな「子どもは群れで育つ」と答えるのである。

 私はテレビを見ながら、異様な感じを受けた。これではどこかの宗教団体の信者が、そろって「最最高でーす」と叫ぶのと少しも変わらないではないか。

 村上春樹は『雑文集』の中で、オウム真理教に触れて次のように書いている。

「閉鎖的集団の中では、『意識の言語化』は『意識の記号化』に結びついていく傾向がある」

 鶴見俊輔さんの言う「お守りことば」というのも、このような記号化された意識や言語を指すのであろう。

 

 〈2月5日〉

 前に私は、「自分が自分であろうとするよりも、自分とは違う何者かになろうとしていた」と書いた。自分は自分であるよりない存在なのに、なぜ自分以外の何者かになろうとしていたのか。

 自分は自分が卑小な存在であることを知りながら、それを素直に認めたくなかったのだ。本来の自分ではない存在であるかのように自分を示そうとして、自他を偽るのである。しかし、他は偽れないので、結局は自分を偽り通すことになる。

 教養主義や向上志向などもその表れだ。そして参画してからは、例えば「あるべき姿があるはずです」というテーマの「あるべき姿」に自分を見せかけようとする。テーマに向き合い取り組むのではなく、見せかけの方に力を入れるのだからバカな話だ。しかし、これは私だけのことではなく、多くの村人にも見られた傾向である。

 会員時代はよく会っておしゃべりしていた女性たちが、参画後は会ってもお互いに素知らぬ顔をして通り過ぎる、といった光景がよく見られた。これは「あるべき姿」にとらわれて、本心からの会話を成り立たなくさせていた結果だと思う。

 人間は今ある自分の姿をそのまま認め、そこから出発する以外にない。自分を隠す、自分を飾るということは、他の評価によって自分を位置づけようとする、風まかせ、波まかせの実に不安定な生き方にほかならない。

 

〈2月6日〉

 このところ、連日、清原騒動でもちきりである。あるテレビのモーニングショーで、コメンテーターの一人が「彼は現役時代に人生の頂点を極め、あとは転落しかなかったのかもしれない」と語っていた。つまり、野球人生における頂点を、一生という長い人生の頂点にしてしまった、というのである。

 その点イチローなどは、野球人生においては既に頂点を過ぎて下り坂にさしかかっているが、彼の人生においては未だ頂点に向かって歩きつづけているように見える。それは彼が肉体トレーニングにおいても、打撃技術においても、倦むことなく追求をつづけており、そこからたえず自分の人生に何かを加えつづけているからである。これは、彼が野球をやめてもつづけられていくように思われる。

 その点清原は、内面に蓄積しつづけるものを何も持たなかったのであろう。だから、野球の終わりが人生の終わりに直結してしまった。彼がツイッターでつぶやいた「さびしい!」の一言は、何か胸に迫るものがある。

 私たちも年をとって、だんだんやれることが少なくなり、社会に役立つことができなくなったときに、それでも老蘇として自分の内面を支えるものがあるかどうか。グチやヒガミばかりの人生でなく、死ぬまで明るく楽しく生きられるかどうか。

 

〈2月7日〉

 体調に変化なし。 

「善人なおもて往生を遂ぐ。まして悪人においておや」

 この親鸞の言葉は何回も読んできた。しかし未だによくはわからない。

 若いころは善悪二元論に立っていたから、この悪人というのは、生活のためにやむなく殺生をせざるを得ない民衆、本来は善人であるはずの人々のことではないかと考えていた。しかし、だんだん年をとってくると、いやこの世に本当の善人などはいないのではないか、少なくとも善の裏に悪を秘めていない人間などはいない、と思えてきた。人間は善悪二つを併せ持っており、時により場合に応じてどちらかが顔をのぞかせる。だから、自分の中の悪を自覚することが大切になる。

 鶴見さんは、著書や対談の中で「自分は悪人である」と何回も語っている。最初は自分を衒って言っているのかとも思ったが、何回か読むうちに彼の戦中体験が元になっていることを知った。昭和20年、彼が海軍軍属としてマニラに赴任しているとき、同僚の一人が捕虜の殺害を命ぜられる。その時から自分が同じ命令を受けたらどうするか、それが深刻なテーマになったのである。そうして、もし自分が命ぜられたら、相手を殺さずに自分が死ぬという覚悟を固める。モルヒネを手に入れて隠し持ち、命ぜられたらすぐそれを飲んで死ぬ、と決める。

 しかし、そう結論して終わりにはならない。本当にそうか、そうできるのか、それを死ぬまで持ちつづけた。彼のべ平連などの市民運動は、すべて悪の自覚からの行動であったということができるだろう。

『1937』における辺見庸氏も同じだ。日本軍の南京虐殺をとおして、日常の暮らしでは「良き父、良き夫」であった兵士たちが、南京のみならず中国全土で繰り広げた「殺・奪・姦」の非道な行為について、もし自分がその場にいたらどうするのか、どのような行動ができるのか、と問いかける。

 死屍あふれる戦場の街で、明日は自分が死ぬかもしれぬ極限状況の中で、しかもそれが大衆的な盲動と化した現場で、自分はどう行動できるのか。

 迎合的性格の自分には、とうてい自信のある答えを出すことなどできない。むしろその場に呑み込まれてしまうのではないか、と考えられる。やはり悪人以外の何者でもない自分が見えてきてしまう。

 親鸞は、悪人だからこそ、また自力では救済できぬ人間だからこそ、中途半端な善人ぶった我執を一切捨てて、弥陀の本願にすがるよりない、と言う。ここに絶対他力の思想が生まれる。

 しかし、今の自分には、とうてい絶対他力という位置には立てない。ただ人間は、死の瞬間にこそ、心も体も生命さえもすべて放して、完全無我執の絶対の位置に身を置くことができるのかもしれない。

  また管が詰まり、管の入れ替え、これで三度目だ。栄養剤の中身を詰まりにくいものに代えてもらう。

 

〈2月8日〉

「人間、有るものに頼れば隙が生じる、失えば、却ってそれが強みになるものなのだ」

  ――シェイクスピア『リア王』――

  先日のテレビで、東北の人たちが、まだ津波の片づけが終わっていないのに、ボランティアが年々減って困っている、と話していた。また、別の番組では「災害コミューン」という言葉が使われていた。

 阪神の時も東北の時も、災害ですべてを失った当時は、みんなが何くれとなく力を合わせ、ボランティアも全国から駆け付けて一種の共同性が成立した。しかし復興が進み、被災者の間に生活面や事業面での立ち直りに違いが生じてくると、共同性にひびが入りやすい。つまり、無から有へと移り始めると、コミューンに亀裂が入りやすくなる。

 その意味で、ヤマギシの実顕地の前提に無所有を置いたことは、きわめて重要なことである。しかし、仕組みとしての無所有と、各人の心の内における無所有とは必ずしも一致しない。仕組みの面からのみ無所有を強要しては窮屈でやりきれないが、といって欲望のままに所有を放置すれば、共同性は崩れてしまう。一人ひとりが取り組む以外にないことかもしれない。

 

〈2月9日〉

 とりたてて体の変化なし。今日で治療半ばという。昨日の放射線医師の話では、「変化のないのが一番」なのだそうだ。放射線治療はピンポイントというわけにはいかず、どうしても他の細胞を傷つけることがあるので、却って悪化したように感じられることもある、との話であった。

 去年のいつだったか、たまたま訪ねてきたKさんと話をしていて、話題が学園のことに及んだ。私が「kさんはいま学園についてどう思っているのか」と尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「わしは学園の子を何人も知っているが、みんなたくましく育っている。彼らを見ていると、われわれ大人がどうなろうと、村がどんな状態に陥ろうと、それでいいと思っている」

 私には何か見当違いの答えのように感じられた。例えば「日本の旧陸軍についてどう思うか」という問いに、「兵隊帰りはみんな逞しくやっているから、それで日本がどうなろうといいんだ」と答えるのと同じで、学園については何も語っていないことになるのではないか。

 確かに、たくましく社会で活躍している学園出身者はたくさんいる。南米でNPOを立ち上げ、現地の貧困対策や農業支援に力を入れている女性、長野で果樹や畑作で地域を盛り上げたり、建設会社のオーナーとして国際的に活躍している若者、こういう人たちの情報を時々耳にする。

 これは学園が「そうであったから」というより「そうであったにもかかわらず」ということであろう。しかし同時に、精神を病んで未だに立ち直れずにいる事例も、何人か聞いている。

 私たちは、学園を遠い過去の問題として片づけずに、たえず現在の問題として振り返らずには、自分自身を前に進めることはできない。

 

〈2月10日〉

 体に特に変化なし。ただ昨日からの下痢、腹がしぶる。栄養剤が変わったためか、抗がん剤の副作用か。

  司馬遼太郎は『菜の花の沖』で、人間にとって大事なことは、幾つになっても自分の中に”子ども”を持ちつづけることだ、と言っている。自分の中の”子ども”を失うと、人間が干からびて、どうにも潤いのない大人になっていく、と。

 司馬さんの言う”子ども”とは、未知のものに対する興味を抱き、これ無しには科学も芸術も開花することがない心のあり様を指している。『菜の花の沖』は、その”子ども”を持ちつづけた日本人の典型として、19世紀半ばに活躍した廻船問屋・高田嘉兵衛を描き出した。

 嘉兵衛は、兵庫の下りものの酒樽廻船で、太平洋航路を江戸まで一番船で飛ばしたり、蝦夷地から樺太までの新しい航路を開拓して現地にニシンの干物製造の作業場を作り、それを大阪に持ち帰って西日本の綿花栽培を支えたりした。オホーツク海を突っ切って樺太に達するという航路は、江戸期の和船ではほとんど不可能とされていたが、嘉兵衛は複雑な航路を見極めそれを可能にしたというのである。これは嘉兵衛の中に存在した”子ども”性なしには不可能なことだっただろうと司馬さんは言うのである。

 ひるがえって今の日本の教育を見ると、子どもの中から大事な子ども性を失わせ、知識ばかりの変に大人じみた子どもばかりをつくりだしているように見える。そして、いたずらやいじめといった、おかしな子どもっぽさばかりが目につくようになった。

 その意味で、ヤマギシズム学園が始まったとき、これはすごいことになるぞ、まさに教育革命が起こる、と期待したのだった。

  

〈2月11日〉

 今日は休日で治療も休み。

 体調変わらず、かゆみなし、痛みなし、吐き気なし。 

 私たちは学園に期待していた。そして自分自身はといえば、最後の最後まで学園を信ずることをやめなかった。学園出身者がどんどん村を去り、学園を閉ざす村が出始め、ついには学校法人設立の申請を取り下げざるをえない事態になって初めて、「これはどういうことか」と考え始めた。なんとも鈍い話しである。

 それはやはり信じていたからである。外部の批判や内部の一部の人たちによる疑問提起に一切耳を傾けず、盲目になっていたからである。これをしも妄信というのであろう。

 全集編集の過程で、山岸さんの「百万羽子供研鑽会」という文書を繰り返し読んでみた。そこにはこう書かれている。

「研鑽会は、先生やおとなの人、みんなに教えてもらうものではありません。自分の思っている考えをそのまま言って、間違っているか、正しいか、みんなの頭で考えます。ですから、先生が言うから、みんなが言うから、お父ちゃんが、お母ちゃんが、兄ちゃんが、ねえちゃんが言うから、するから、そのとおりだとしないで考えます」

 先生やお父さん、お母さんの言うことも、ましてや世話係の言うことも、その通りだとしないで自分の頭で考えること、ここに自ら学び育つ学育の本来の姿が謳われている。そしてこれは教え、教えられることを排除することではなく、教えられたことをそのまま鵜呑みにする教育というものを否定したものである。ここに新しい教育の原点があるはずであった。

 しかし実情はどうであったか。世話係と違った意見を出せば、生意気だ、反抗的だと批判され、個別研や体罰の対象になった。このどこに「学育」の理念があっただろうか。

 

〈2月12日〉

  特に変わりはないが、ここ2、3日下痢がつづいている。

  昨日は学園問題を理念の面から考えてみたが、学育理念はこの間どこかに消え去っていたのだろうか。そんなことはないはずである。なぜなら私たちの誰もが「子どもは教え育てるのではなく、自ら学び育つものだ」と口にしていた。ではなぜ、口にしていたことと現実との間に、これほどのギャップがあったのだろうか。これはかなり深刻な問題である。

 理念はいくら言葉で覚えたり、口にしたところで、現実の場で実証しないかぎり、絵に描いた餅にすぎない。私たちはみんな理念を神棚に供えて、ありがたがっていただけなのである。まことに愚かなことであった。

 

〈2月13日〉

 体調、特に変化なし。  

 ところで、ヤマギシズム学園は全く意味のないものだったかと言えば、決してそんなことはない、と私は思っている。学育理念に基づく全く新しい学園ということで、私たちは諸手を挙げて賛成したし、教育界に一石を投ずるものと期待もしていた。

 しかし、方向がずれていったということのほかに、学育理念を理解し実践しようとする人材にも乏しかった。子どもを大人の小さなものとしてしか見ることのできない世話係や村人によって育てられることになってしまったのだ。

 『星の王子さま』の最初のところで、サン=テグジュペリは、親友のレオン・ウェルトへの献辞として「この人は子供のための本でも何でもわかってくれる人だ」として「この人がかつて子供だった、その子供にこの本を捧げたい」と、献辞の最後をこう結んでいる。

「小さな子供だったころの レオン・ウェルトに」

 子どもを育てるには、昔子どもであり、今も心のどこかに子どもを育み抱いている大人である必要がある。

 子どもはみな、どこかに天才を持っている。何かわからないけれども、何かになりうる可能性である。しかし、その天才を見い出すのは容易なことではない。よほど子どもから学ぶことのできる柔らかくしなやかな能力を持ち、努力できる大人でなければならないだろう。十分な能力はなくとも、そのための努力と研鑽を惜しまぬ人間でなければならないと思う。 

 筒井康隆のショートショートを読み終わる。

 

〈2月14日〉

 時々、胸やけがおこるが、特に痛みや吐き気はない。 

 2000年当時、村が混乱していたころ、さまざまな会合があり、何が問題なのかを知るべく、それらの会合に顔を出した。若い人たちの間で、無所有を論じるのによく「夫婦だったら」とか「家族だったら」という例えが出された。これは後に鈴鹿のサロンの発表会でも、同じ例えがよく出されていた。

「夫婦だったら、あるいは家族だったら、誰がお金を出してもいいのではないか」「だから一人ひとりが持つ必要はない」と。

 しかし、これで無所有の説明になるのだろうか。所有がないという話と夫婦の、あるいは家族の誰かが所有しているという話は、全く次元の異なる話である。また夫婦といってもさまざまな夫婦があり、離婚もあれば再婚もある。仲のよい夫婦もあれば、すれ違いの夫婦もある。村の中にいようと外にいようと、夫婦の典型的な形があるわけではない。

 ところが、人は何かの例えを出して説明されると、何かわかったような気になってしまう。これは自他ともによほど注意しなければならないことだ。

「真理の側から見れば……」とか、

「何も知らない子どものような白紙の心だったら……」とか。

 こういう例えを出されると、真理もわからず、子どもの白紙の心なるものも知りようがないのに、何かわかったような気持ちになるのはどうしてなのか。

 研鑽はあくまで事実に基づいて行わなければならない。

 小保方晴子さんの『あの時』読み終わる。面白かった。