広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎吉田光男『わくらばの記』(2)

わくらばの記 病床妄語①

 入院していると夜中によく目が覚める。特に明け方に目が覚めると、もう寝つくのは難しい。そして頭の中をさまざまな妄念がうごめき回る。その妄念の一つをつかまえて、翌日のノートに書きつける。すると翌日には次の妄念が浮かんでしばらく消えることがない。そしてそれをまた書きつける。前日の続きのこともあれば、全く違うこともある。この記録は、そうした妄念の記録であり、「わくらばの記」の一つとして特に「病床妄語」と名づけた。

 

〈1月18日〉

 今日入院、パジャマに着替え、用意完了。

 あとには恐るべき胃カメラが待っている。10時半、胃カメラ挿入、実に苦しい。 そのあと、放射線治療のためのCT、体に照射個所の目印を何か所かペイントされる。

 昼食の後は点滴のため、右腕の静脈にかなり長い管を通される。静脈が細いためか、何か所も針を刺されて腕の付け根が腫れ上がってしまった。痛い。

 何しろ病院とは痛く、苦しいところ。死の直前はこんな苦しみのために、少々の寿命引き延ばしはご遠慮申し上げたい。

 

 〈1月19日〉

 夜はわりとよく寝られた。

 放射線の機械故障で、今日は一日治療なし。のんびり本でも読むしかない。ポータブルラジオは、雑音ばかりで全く役に立たない。

 失って初めて、そのものの重要性がわかる。逆に言えば、失わないうちはなかなかそれに気づかない。凡人のあわれなところだ。耳が聞こえなくなって初めて耳の機能がわかるし、食事が普通に食べられなくなって初めて、口や食道や胃の腑の働きに感謝の念が起きる。

 極論すれば、死んでみなければ生の本当の意味はわからないのかもしれない。

 三畳一間の病室と狭いベッドを我が家とする暮らし。子規ではないが、まさに病床六尺、その中にも自分の生き方があるだろうと思う。これからそれが試される。

 

 〈1月20日〉

 昨夜は遅くまでサッカーの試合を見てしまった。

 食事は毎回完食。今日から治療開始とのこと。

 入院してから、不思議に許南麒の詩が思い出される。大学1年の時に文化祭で、有志一同で詩と歌の朗読劇をやったが、その時に詠んだ詩の一つだ。    

   麦畑に雲雀鳴き

   麦の穂に5月の風揺れ

   また人々はビールのびん腰に下げて

   峠道を降りてくる

        昔ふるさとを棄てたときも

   ふるさとがいやで行くんじゃなかった

   むかし異国に渡るときも

   異国が好きで行くんじゃなかった

   今もまた同じ気持ちで

   振り返り振り返り峠道を降りてくる   

 1950年の朝鮮戦争(韓国では南北戦争という)のさなか、逃げ惑う朝鮮の人々をうたった詩だ。私は許南麒の詩が好きだったが、今はその詩集はどこにも存在しないし、人間そのものが歴史から抹殺されてしまった。総連系の友人の話では、許はしばらく朝鮮総連で小使いとして使役され、いつの間にか消息不明となった。多分、北へ連行され、処刑されたものと思われる。

 良心的な人、人間味のある人は、命を奪われやすい。日本でもそうだ。私が小河内で出会った伊藤さんという元新宿自治労の委員長は、女性問題で批判され、小河内山村工作隊に飛ばされていたが、やがてスパイ容疑で査問され、日共による過酷な監禁と暴行の果てに殺され、今なおダムの下に眠っている。

 昨日、失って初めてその価値に気づく、と書いた。つまり喪失によって獲得するものがある、ということである。

 青春去って、青春のすばらしさ、可能性を知る。失敗して初めて、過ちに気づく。

 しかし過去は還ってこない以上、未来にそれを投影する以外にない。が、未来に青春はない。いわば矛盾だ。そしてこの矛盾を生きるのが人生というものなのだろう。

 

 〈1月21日〉

 今日はやたらとゴッホの自画像についての思いが出てくる。彼は何枚も何枚も自画像を描いた。何のためか。

 恐らく「自分とは何か」「自分とは何者なのか」と、たえず自分を追い求め、追いつめていたのではないか。画壇から評価されない、1枚も絵が売れない、しかし自分は描くこと以外に生きることはできない。そんな自分とは何なのか。描く以外に画家としての自分(レーゾンデートル)を確認することができなかったのであろう。

 耳を切り取った自分も描く。決して美しくはない。写実的でもない。それでも描くしかなかった。そして自殺した。

  食欲少し減る。抗ガン剤、放射線治療2日目、今のところ特に変わったことはない。

 

 〈1月22日〉

 治療3日目に入る。

 朝5時に目覚めて、ぐるぐると湧き上がる思いの渦の中から、”はれはれ”という言葉が浮かび上がってきた。この言葉がつくられた当初から、どこか違和感を抱いていたが、あまり深く考えることはなかった。しかし今になると、まったくおかしな言葉だと気づかされる。

 人の心にも、社会にも、晴ればかりがつづくことはありえない。曇りもあれば、雨もあり、嵐さえもある。それを認めないと、隠すか、嘘をつくことになる。

 鶴見俊輔さんに依頼した本の序文に「山岸会の教祖・山岸巳代蔵」という文言があった。これを「ヤマギシには教祖はいない」という理由から、時の出版社は無断で「教祖」という言葉を削ってしまった。「教祖」というのは鶴見さんの見解、「いない」というのはこちらの考え方。無断で削り取ることはできないはずのものなのである。

 人の目に見えなくすることで、あたかもそれが存在しないかのように振るまうのはいかにも姑息。ずいぶんそうした姑息な行為をしてきたものである。牛乳の日付変更、食中毒の隠蔽、トラックや看板から「やまぎし」の文字を消す作業、こうした考えが過ちを素直に認めない、それと正面から向き合わない言動につながってしまった。

  食欲落ちる。薬のせいか、運動不足のためか。腰が重く、痛みもある。ベッドの上で体操、下で椅子につかまって足の上下運動。

 

 〈1月23日〉

 昨日は深夜までサッカー観戦。

 食事は「フレークきざみ」から「一口きざみ」に変えてもらう。この方がおいしい。

 何人かとメールのやりとり。メールというのは、どうしても言葉数を少なくしようとするので、日本語が乱れやすい。若者の間で変な簡略語が流行するのも無理はない。もう一つは、すぐ返信しなければという強迫観念が生ずる。携帯やスマホを手離せない人が増えるわけだ。

 朝は何ともなかったが、昼食を一口食べたら吐き気に襲われ、ほとんど食べられなかった。夜は全く食べられず。

  久しぶりにシャワーを浴びる。粗末な風呂場だが、頭を洗ってさっぱりした。

 看護師さんたちは、みな親切。

 

〈1月24日〉

 昨日から始まった抗がん剤の副作用か、食事は全くとれない。みそ汁と具のカボチャを一口食べたら、胸の痛みと吐き気。昼もおかずの小エビ数匹と豆腐を少し食べただけ。あとは吐く。

 pm2時45分ごろ、豊里からEさんら9人もの大部隊が見舞いに来てくれた。

 Sさんが私の手記を読んで、「これぞヤマギシの生き方」みたいなことを言っておられたけれど、どうもこちらにそんな意識はないので弱ってしまった。

 吐いているせいか、だいぶ頭がぼけた感じがする。

 

 〈1月25日〉

 窓のカーテンを開けると、外は雪。雪を見ると『やまびこ学校』の冒頭の詩を思い出す。

     雪はずんずん降る

     人間はその下で暮らしているのです 

 何の装飾も技巧もない、子どもの目に映ったまま、心に映じたままの世界。山形の貧しく奥深い山村と、その下で生きる人びとの世界が浮かび上がってくる。

 この「ずんずん」は、もしかしたら「こんこん」だったかもしれない。標準語教育で、雪のオノマトペは「こんこん」と意識づけられていたから。ただ私は「ずんずん」のほうが好きだ。そのほうが雪深い東北の山村を象徴している。

 相変わらず食は摂れない。玉子焼きを少々とみそ汁ひと口。

 岩田医師の診断で、食道が途中から細くなっていることが判明、鼻から管を通して胃に直接栄養を送り込むことになった。さっそく処置を受けた。

 これぞまさに、札付きならぬクダ付き生活。

 

 〈1月26日〉

 鼻からの栄養補給は、今のところ問題ない。体の異常は感じない。頭のぼーっとした感じはなくなった。ただ、小便の量が増えた。昨日の倍ぐらい。体力が少し回復したのか。ただ腹の肉がぐんと減った(メタボ解消)。おかげでパジャマやパンツがゆるくなり、ずり落ちてきて困る。

 未来は過去から照射するしかないと思うのだが、そのことと過去にこだわる、あるいは過去にとらわれるということとどういう関係にあるのだろうか。

 恐らく「こだわる」ことは、過去を調べることをやめ、固定化することだろう。そしてその固定化した過去に自分がとらわれ、身動きができなくなる状態を指すのだと思う。

 だから、未来を照射しつづけるためには、過去を調べることをやめてはならない。繰り返し繰り返し調べることである。

  栄養補給のおかげで体調はまずまず。朝から300キロカロリー3袋。

 

 〈1月27日〉

 昨夜は遅くまでサッカー観戦、疲れはない。

 未来は過去からしか照射できない、と書いた。よく研学などで「いま、いま、いま」ということが強調される。「直面している今から逃げてはならない」という意味で、これは正しい。しかし、その「いま」をどこから考えるかといえば、過去の経験や知識から得たもので考えるのである。だいたい「いま」という時の流れを切り取ることなどできない。切り取られた「いま」は、時の流れとしての「いま」ではなく、観念がとらえた近過去の映像である。

「いま」を強調することで、過去に目をつぶり、歴史を忘却することは許されない。

 安倍首相が、「過去を未来の子供たちに残さず、未来志向の世界を構築する」などとバカげたことを言っている。慰安婦問題を無かったことにしたり、金でケリをつけておしまいにしようなど傲慢も甚だしい。

 ヤマギシでいえば、1980年代以降の急拡、そして急速な縮小、そこにいったい何があったのか、なぜそうなったのか、そしてその時私たち一人ひとりは何を考え、どう行動したのか、繰り返し繰り返し考えてゆく必要がある。そこにしか未来に生かすべき教訓はないのだ。

  少年時代からの自分を振り返ると、自分が自分であろうとするよりも、いつも自分以外の何者かになろうとしてきたように思う。

 

 〈1月28日〉

 体調とくに変わりはないが、小便の量が増えて困る。栄養剤の増量のためかもしれない。

 引き続き「いま」と「過去」について考えているが、取り立てて進捗はないので書くのをやめる。

 放射線を浴びて何日になるか、今日初めて腹部に熱のようなものを感じた。

 

〈1月29日〉

『1937』の中で、辺見庸氏は、堀田善衛の『時間』を引用しながら、南京虐殺の死者について、死者の数が問題なのではなく、一人ひとりの死が問題なのだ、と強調している。一人ひとりの死が、10万なり20万なりに達したのであって、一人の死は10万分の1、20万分の1のものではありえない、と。死者の一人ひとりには、その人だけの人生があり、物語があるのだ。

 私たちはよく数、数量を問題にする。しかし、一人ひとりの死は、そしてその人生は決して数に還元することはできない。

 それに関連するかどうか、村の暮らしの中でよく「みんな」という言葉が使われる。

「みんながやるからできます」というテーマとか、「みんなの力を一つにして」とか。

 しかし、「みんながするからそうする」という生き方は、本当に主体的な生き方なのだろうか。この考え方は、もしかしたら自分を放擲して付和雷同、ロボット的な生き方に転落することではないか。「お手てつないでみんな一緒」というのは、一体の生き方と同じなのだろか。

 10年ほど前に、村人の一人と話をしていて、何回かこんなやりとりがあった。

「みんなそれが良いって言ってるぜ」

「みんなって誰や?」

「みんなってみんなよ」

 そのうちに、自分だけがみんなから外れているような気分になって、黙ってしまった。しかしこの「みんな」という言葉は曲者である。うかうかすると、自分も他もごまかされてしまう。

 山岸さんは、こうした「みんな」の寄る一体を「便宜一体」と言い、「便宜一体」は何かあればすぐ崩れる、とも言っている。

 

 〈1月30日〉

 朝7時のニュースのあと、少し体操。

 小水がよく出るのは、利尿剤のためらしい。抗がん剤による腎毒性除去のためだという。なにしろ、夜中でも2時間おきにトイレに起きるから、なかなか寝つけない。

  吉本隆明氏が生前に書いた食に関するエッセイの中で、こんなことを書いている。(長女のハルノ宵子さんとの共著『開店休業』)

「良いことばかり言う集団や個人が増える社会は衰亡していく」

「ハレハレ」なんていう言葉は、その代表的なものだろう。いいことばかり言おうとすれば、悪いことは必ず隠さねばならないことになる。隠せば隠すほど、それが内部を腐食させる。表面はきれいに見えるが、内側から腐敗が拡がる。

   船戸与一の『満州国演義④』を読み終わる。2・26をはさむ昭和10年前後の事情がよく書かれている。

  天皇・皇后夫妻のフィリピン訪問。戦場になり、日本軍の2倍の110万人が犠牲になったフィリピンの死者を戦没者と共に慰霊することは、祭祀の王としての天皇が一番願っていたことだったろう。天皇は慰霊碑の前で「過去の歴史を決して忘れることはできません」と語った。こうした言動は、歴史を忘れようとし過去に目をつぶる安倍首相をはじめとする右翼勢力へのささやかな抵抗になっている。天皇制の是非は別として、平成天皇の心からなる平和への願いが読み取れる。

 これに関連して、数年前に北海道交流に行ったとき、終戦の日の挨拶で天皇が「先の敗戦で犠牲になった内外の大勢の方々の……」と語ったことが強く印象に残っている。天皇が「終戦」と言わずに「敗戦」という言葉を使ったことに驚いたのである。しかし、翌日のテレビや新聞には「終戦」という言葉しか出ていなかった。

 

 〈1月31日〉

 生は偶然であるが、死は必然である。

 文章を読んでいて書き手の心が感じられないものは、読み続ける気がしなくなる。多くの解説書の類がそうだし、身近なものではSさんの文章がそうだ。「けんさん」紙に連載されたもの、またそれを一冊にまとめた『贈り合いの経済』もその一つだ。西欧の哲学者・思想家からの引用などもあって、私の理解を超えることもその理由になっているのではあるが。

 この本の中で私が最も疑問に思ったのは、「吉本隆明氏との対話」のところである。昔、Sさんたちが吉本さんを訪ねた時に交わされた会話の中身であるが、吉本さんの本から引用すれば、次のような内容になっている。

 「数年前、偶然に伝説されていたユートピア山岸会の会員と出会って話を聞く機会があった。これはいい機会だとおもって、聞いてみたい関心のあるところをたずねてみた。その肝要なところを記してみる。わたしが知っているのは山岸会がまわりを一般社会に囲まれたユートピアだということだけだった。

 

質問吉本)もし会員のなかの若い女性が現在の優れた流行の服装(たとえばそれしか知らないからコム・デ・ギャルソン)を着てみたいと望んだらどうするのか。

山岸会の会員)もちろん係りが望み通りのものを求めて着てもらう。欲求はすべて叶えられる。

〈わたしはゼイタク品だからダメという答えを予想していた。〉

質問吉本)それぞれの会員はユートピアに叶うためにどんな等価労働をしているのか。

山岸会の会員)自分の得意な労働をすればよい。掃除が得意なものは掃除、洗濯の好きな者は洗濯、大工仕事の得意な者は大工といった具合だ。

〈それでは等価労働にならないのではないか。たぶん経済的に成り立つには主催者は別の等価原が要るはずだ。〉

質問吉本)もし会員の子弟が特殊な分野の勉強がしたくて一般社会にしか教えてくれる先生や専門家がいないので、そこで勉強したいといったらどうするのか。

山岸会の会員)そんな子はいませんよ。

〈なぜという疑問を感じたが、会員も反対の意味で疑問を感じたらしい。)

質問吉本)自分の欲しいものは自分で購入したいからその額のお金を渡してもらって買いに行きたいと求められたらそうしていいのか。

山岸会の会員)係りがいて要求通りのものを必ず購入してくれるのだから不必要です。

〈わたしは一般社会に囲まれたユートピアにとってこれは重大なカギだなと感じた。〉 

 

 以上は『中学生のための社会科』(市井文学社)から引用した「山岸会との対話」の項の全文である。『贈り合いの経済』の中でSさんは、吉本さんの質問に答えたのが自分であると書いている。この対話の中にはさまざまなテーマがあると思うが、ここ十数年学園問題を考えてきた自分にとっては「そんな子はいませんよ」という一言は特に大きな問題として響いてくる。

 学育・学園の歴史の中では、「そんな子はいない」どころか、事実としてたくさんいたのである。吉本さんと会った頃にそう考えていたとしても――

 私を含めて多くの人がそう考えていたことは間違いない――今の時点で本を出すとしたら、それについて今どう考えるかを明らかにする必要があるだろう。ところが、この本では一言もそれに触れていない。私にはまったく理解できない。