広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎「人間集団の在り方について思うこと」 吉田光男

※これは、「ヤマギシズム実顕地について思うこと」などの原稿に対しての返信です。いつも忌憚なく感想、批判などしていただくので、有難いと思っています。なお、人名、団体名など一部イニシャルにしています。表題は私がつけました。 

〇私が今考えていることは、実顕地がどうこうというより、ややオーバーに言えば、人類的な課題としての自分あるいは人間集団の在り方のようなものです。

 まず、山口さんが書いている山岸巳代蔵の優柔不断の人への変化ですが、これは盲信研にもっともよく表わされていると思います。剛我抜きはやめるということが、その結果でしょう。別の言葉で言えば、決めつけない、断定しない(断定できるものはない)、「どんなに真理に違いないと思えても、そうでないかもしれない可能性を残しておく」等々。

 このことはすごく重要なことと思えます。時間的にも空間的にも限られた相対的な存在にすぎない人間が、たとえどんなに優れた人間であっても、これが真理(いつでも・どこでも・何にでもという全時間・全空間を貫いて存在するとされる理)だなどと断定できるはずはないのです。だからこそ、時空を超えて真理を表わす神なるものを人間は創造したのです。それをヨーロッパや中近東では、唯一絶対の大文字のゴッドとして、人間はその絶対の指示の下に子羊として暮らすことになりました。神と人間の間には神の言葉を伝える預言者、あるいは神の代理人(司教・神父等)を置いて、その教えに従って生きてきたのです。

 フランス革命に始まる近代は、自由・平等・友愛のスローガンのもとに絶対王政や教会のくびきから人間を解放しましたが、それは同時に人間が互いの正しさを競う血で血を洗う争いの種をも播くことにもなりました。ルイ16世やマリー・アントワネットばかりでなく、この革命を推進したダントン・マラー・ロベスピエールまでが、次々とギロチンにかけられてしまいました。近代の夜明けはまさに流血に始まるのです。

 ツアー暗殺に関与したとされてシベリア流刑に処されたドストエフスキーは、『カラマーゾフの兄弟』の中で、特に「審問官編」を書いてこの問題を提起しました。つまり、民衆というものは、与えられた自由をよく行使することができるかどうか。愚かな民衆は権利を主張しあって、互いに傷つけあって混乱を招くだけではないか。「だから民衆を正しく導く〈私〉という審問官が必要なのだ」と審問官をして語らしめます。ドストエフスキーの預言は、スターリン・ヒトラー・毛沢東といった現代の審問官の登場によって実現されました。

 

 これほど大掛かりな審問官ではないけれども、私たちには真理、あるいは正しさを求め、安易に信じようとする性向があります。無意識のうちに審問官を求める性向です。これは自分の中にある傾向として認めざるをえません。だからこそ山岸さんは「信じない」「教えない」「特別人間はいない」ことを強調したのだと思います。では愚かな人間である私たちは、何をもって進んでゆけばよいのか。そこに山岸さんは「けんさん」を置いたのだと思います。研鑽を単なる方法ではなく、生き方そのものとしてヤマギシズムの生命線に位置づけたのです。

 研鑽の問題に入る前に、ここで村岡さんの教育論について触れてみます。村岡さんはヤマギシの学育は「教えることを全否定した」と書き(p102)、「私は〈学育〉ではなく〈学教育〉としたほうがよい」と書いています(p104)。これは学育の本質を全く知らない者の発言です。真なるもの、真理なるものを知っているものなどいるはずがなく、それはあくまで探求すべき対象なのであって、教えることなど絶対にできないし、第一教えられる人など一人もいないのです。恐らく村岡さんは知識の伝達と真理の不可知性とを混同しているのでしょう。

 ところが、この学育については、ヤマギシの中でも誤解・混乱があり、本庁や調正所が正しさを体現しているかのような錯覚がありました。そして学育係りは小審問官となって、子供たちに接していたのです。自分たちは正しい、子供は係りの言うことを素直に聞くべきである、言うことを聞かなければ個別研鑽にかけ、あげくは暴力でも従わせる、こうして本来の学育理念から懸け離れた〈教育〉(これが正しいとする教え)という押しつけが、学育の名でまかり通っていたのです。

 学育や学園についての批判はたくさんありますが、ヤマギシズム学園がいかに学育理念から外れていたかについて触れられたものは寡聞にして知りません。Kさんの本では自分のやってきたことについての反省がありませんし、一時実顕地内外に「叱る」ことを流行させ、「叱って育てる」とか「分類して育てる」と言ってきたことがどうだったのかについて全く言及されておりません。またK女史が「学育の研鑽部門と子供に直接接する係りとの〈ズレ〉が生じたことが問題」と語ったそうですが(p105)、これなどはまったく問題外です。そうした自己正当化ではなく、たとえば自分が「赤えんぴつ」という名の文集を出して、子どもの作文に朱筆を加え、子どもたちの作文を誘導していたことについてどう考えるのか反省すべきです。当時の高等部生は「何をどう書いたら係の気に入られるか、要領がわかった」などと話していたのです。

 とにかく、当時の学育関係者からは、深い反省の弁が聞かれません。聞かれるのは指導部門、あるいは中枢部門に対する批判ばかりです。それを自らの意思でやってきたのだという自覚がないのです。これは人間としての堕落と言ってもいいのではないでしょうか。

 

 信じない、教えない、教えられない、という山岸さんの考え方は、だからこそみんなの知恵を寄せ合って研鑽することに活路を見出そうとしたのだと思います。研鑽こそが生命線なのです。しかし、研鑽は機能していない、という事実があります。なぜなのか。研鑽がただの話し合いになっている実顕地、研鑽という言葉自体を無くしたAグループ、いずれも研鑽を実現・実行しているとは言えないように思います。

 フランス革命に始まりイギリス、アメリカに波及していった民主主義の思想は、イスラム圏を除けば、一応世界的に肯定された最善の思想とされています。自由と平等が一応誰にも保障され、誰の意見にも同等の価値があるという建前になっています。しかし、愚者の100人は一人の賢者に勝るものかどうか。ソクラテスは民主主義による裁判員裁判で死刑に処されましたし、ヒトラーは当時もっとも民主的だとされたワイマール憲法下の選挙で圧倒的に支持されて政権の座に就きました。

 世の指導者と同じく私たち民衆も愚者・愚民の一人にすぎません。少なくとも、決して賢くはないのです。問題はそのことの自覚です。私たちは決して賢くはないから研鑽するのです。山岸さんの研鑽に寄せる思いは、そういうことではないか、と思います。しかるに、少し頭の良い人が「自分が指導者にならなければならない」と信じ込み、みんなを領導しようとしたり、審問官になろうとしたりします。確かに日常の現実を動かすには、即断即決を要することがたくさんありますから、調正所や研究所が必要になることは避けがたいと思います。しかし、それはあくまで〈とりあえず〉ということであって、結果によっていつでも修正可能なものでなければならないでしょう。これまでのヤマギシの歴史は、そうはなっていませんでした。だから、〈これが正しい〉と主張するグループが二つ以上できると、研鑽になることなく分裂に終始してきました。F而り、S而り、です。

 

 しかし、自分が決して賢くはない、愚かな存在である、と自覚することはなかなか難しいことです。ソクラテスが「自分は決して賢くはない」と自覚し、親鸞が「愚禿親鸞」と自ら称したように、私たちが自らを愚者と認めることは容易ではありません。研鑽学校はそのために設けられたはずですが、ほとんどの人が、自分ももちろんそうですが、ちょい賢になって帰ってきます。ちょい賢の人は結論が出たらそれ以上考え続けることをしませんから、そんな人が何人寄っても研鑽にはならないでしょう。結論を出して「これでよし」とすることは、それ以上考えない、その先の研鑽は放棄するということにほかなりません。

 賢くない私たちが研鑽するための武器は〈なんで?〉であり〈本当は?〉です。そう問い続けることです。しかし、私たちはすぐ問い続けることを止めてしまう。研鑽会が終わったとたんにテーマのことなど念頭から飛び去ってしまう。だから愚かな私たちの頭は、愚かなままに固まってしまい、頑固・我執が抜け切ることはないのです。

 

 ここに道元の言葉があります。

「仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘るるなり」

あるいは親鸞の言葉。

「一つには決定して、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと深信すべし」

「自己を忘るる」とはいわば零位に立つことと言ってもいいかと思いますが、そのために道元はただただ座ること、つまり只管打坐の曹洞禅を打ち立てたのです。ここには終わり=卒業はなく、坐禅は一生の生き方になっています。親鸞はこれと対照的に見えて、しかし自己を救い難い罪悪生死の凡夫と見極めることで、愚かなる存在としての自分への執着一切を放して弥陀の本願に帰依しました(絶対他力)。そして自己の放擲をなし続けるために「南無阿弥陀仏」という弥陀の名号を唱え続けたのです。両者とも宗旨は異なるけれども、自己を放すこと、放し続けることでは一致していると言えるでしょう。

 

 二人の偉大な宗教者を前にして、誰が自分は賢いなどと言えるものでしょうか。「なんで?」「本当は?」と問い続ける以外に、つまり研鑽を自分の生き方にまで深める以外に、どんな生き方が可能なのでしょうか。

 しかし、研鑽という生き方は本当に難しい。どうしても自分を愚かとは認めることができないのです。すぐに結論を出し、決めつけでものごとを判断してしまう。こうした救い難い私たちで構成する人間社会は、ある程度のところにとどまったままに抗争を続け、鶴見さんの言うようにやがて消滅の時を迎えることになるのでしょう。ヤマギシや鈴鹿が多少はマシな存在として、消滅の過程での小さな希望の光になるのかもしれません。

 

 私のいま考えていることは以上につきますが、あと二三蛇足を加えておきます。

 一つは、村岡さんの言う〈友愛労働〉についてです。〈友愛〉という言葉は、恐らくフランス革命の〈自由・平等・友愛〉からもってきたのだと思います。実顕地で使われる〈仲良し〉と関連づけて思いついたものでしょう。その言葉はともかく、村岡さんの考えの中には、マルクス以来の労働観があります。労働を、生きるためのやむを得ざる労働力の支出であるとする見方です。労働を疎外として、生命力の一方的支出と見ているのです。これには、代償としての収入が必要となります。確かに市場経済の下での労働は、パンのための労働であり、労働力の売買に支えられています。しかし、労働=働くことにはもう一つの大事な側面があります。人間が何かをすること、対象に働きかけることは、一方的な支出であるのではなく、働きかける過程そのものが同時に受け取る過程でもあるということなのです。生命力の外化が同時に生命力の内化でもあるという自然の理があるように思います。

 

 歩くという労働力の支出が、肉体の維持健康につながり、植物を育てることが直接心身の充実となって返ってくる。働くことは生きることそのものなのです。この外化=内化という本来の労働過程が資本主義経済の下では切り離され、労働の一方的支出と貨幣による代償という二分された形になってしまいました。これをこそ疎外というのでしょう。

 ヤマギシでの労働は、この二分された機能を一つに回復するべく考えられたはずであり、友愛労働も義務労働もあったものではありません。しかし、本来の労働を回復するには、ただ代償がない、義務・拘束がないというだけでなく、働く自分と働きかける対象とが一体になること、つまり山岸さんの言う「真の農人」「真の教育者」「真の商人」に自分がなる以外にありません。育てることが育てられることであり、教えることが教えられることであり、もたらすことがもたらされることである、といった生き方。これも口で言うほど簡単なことではなく、絶えざる研鑽が必要です。自分たちの実態をみると、ただ何となく働いている、金もうけのために働いている、ヤマギシを広めるために働いている、といった段階にとどまっています。

 

 このことは、次の無所有の考え方につながってきます。物自体、つまり宇宙自然界すべての存在が、誰のものでもないことは当然のことですが、人間の観念界に生じた所有意識を無所有に転換するには、私たちが一切の見返りを求めない無償の生き方に転換する以外にないと思います。『養鶏書』の中で山岸さんが書いている「与えて、与えて、与え尽す愛の心」、これこそが無所有だと思います。

 例えばここにおいしいケーキがあったとします。誰かに食べてほしいと願って贈るとき、それは無償の行為と言えます。しかし、贈るときにお返しを期待していたとするなら、それは直ちに有償の行為になってしまいます。ましてそれを市場に持ち込んで不特定多数の人に売り込もうとすれば、それは商品として作り手の心は金銭にとらわれてしまいます。売り手と買い手の心は分断されてしまい、人間は物と物との交換の影に消え去ってしまい、経済過程は一種の物理的流通過程に変貌します。

 いま市場経済が行き詰まり、世界経済が破綻へ向かっているとき、人類は所有経済から無所有経済への転換ができるかどうか。人間というものの欲望の強さ、大きさからみて、容易なことではないでしょう。僅かな可能性を追求している実顕地でも、私たち構成員の意識から所有意識を払拭することは望みがたい感じがします。

 

 最後に山岸さんの考えについてのいくつかの疑問を書いてみます。

 一つは、山岸さんが「人間の知能」に全幅の信頼を置いていることです。私にはそれほど信頼できるものではないように思われます。その理由は既に書きましたので繰り返しません。

 もう一つは、山口さんも書いている近代技術への過度の信頼です。特に「人種改良と体質改造を」「百万人のエジソンを」のところは、疑問というよりもむしろ反対です。人間と鶏とを混同することはできないと思います。遺伝子操作による人種改良など、人間が人間を神の位に引き上げてはならないと思うのです。私は人類もまた、恐竜と同じようにこの地上に発生し、発展し、やがては消滅する生物種の一つだと思っています。これは善悪を離れた問題であり、私たちはこの運命から逃れることはできないでしょう。こうした歴史的実在の今現在の状況の中にヤマギシもあるということを認識すべきなのです。そしてこの状況の中で、〈せめて〉〈よりよく〉〈よりましに〉をできるかぎりすることだと思っています。

 日ごろ思っていることを、この機会に書いてみました。ご笑覧ください。

 2013年4月  吉田光男