広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎知人・吉田光男さん逝去す

〇吉田光男さんが4月30日逝去されました。享年85歳。
 吉田光男さんは、昨年(2016年)1月から、食道癌による105日の入院をされ、退院して元気になられましたが、今年3月ごろからガンの進行が早まり、再度入院することになりました。その頃からお身体が弱ってきて心配していました。そして娘さんから死去の連絡がありました。
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 吉田さんがごく身近な人に託された「最後の時を迎えて」には次のような「私の死生観」などが書かれている。
〈「私の死生観」:私は、人の死は自然現象の一つと思っているから、自分の死についても残念とも悔しいとも思っていない。時が来たら自然に還る。当たり前のことである。
 また人生の価値とは、生きた時間の長さではなく、その充実度にあると考えている。ガンが見つかってからこの一年半の間に、自分の人生の大半を占めたヤマギシでの生活について振り返り、大きく見直すことができたことは望外の幸せであった。これを支えてくれた村の人々、たくさんの知友の方々に感謝を申し上げたい。また、家族・親族の方々にも改めてお礼を申し上げたい。〉

 

〇吉田光男さんのこと
 吉田光男さんとは、8年間(2003年~2011年)にわたる『山岸巳代蔵全集』の編集・刊行委員として時々お会いしていた。その後私は、それの案内書の位置づけで『山岸巳代蔵伝』を書き始め。その過程で頻繁に連絡を取るようになり、出版後も交流を重ねてきた。

 吉田さん(1932年生)は1974年に出版関係の仕事を辞め、ヤマギシズムに共鳴して参画され、その後40年余、山岸会事務局や様々な実顕地で生活を送り、その間にたびたび。特別講習研鑽会の世話係をしておられた。

 1990年代後半ごろから、実顕地の進めている方向性に疑問を持ち始めた人たちが徐々に増えていき、特に学園の酷い実態が明らかになるにつけ、2000年前後からヤマギシズム実顕地から数多の人が見切りをつけ離れていった。
 吉田さんにお聞きしたところ、この時に、深く悩んでいたという。

 

〈私にとって一番深く悩んだのは、2000年以降の10年である。これまで村の中心で活躍していた何人かの人たちが鈴鹿に居を移し、新しい運動を始めた。—–しかし、自分が十分納得しないうちに、「ここがダメならアッチがあるさ」と簡単に移り変わることなどできない。村に問題があるとしたら、それはどこにあるのか、そしてそれは何なのかを見極めたいと思った。観念の形を変えてみたところで、中身が変わることはないのだ。〉(「わくらばの記―病床妄語④3・15」)

 

 吉田さんの温厚な人柄と親身になっての対応などに、私を含めていろいろお世話になった方も多いかと思う。
 親しく交流するようになってからの吉田さんには、山岸巳代蔵の描いた理想とそれの具体的な実現方法としての「けんさん」に焦点を当てながら、縦横無尽に様々なことを問い続けたひととして深く印象に残っている。

 私からみて、吉田さんにとって次のことが大きかったのではないかと思っている。
一つは『山岸巳代蔵全集』に刊行・編集委員として関わったこと。吉田さんが捉えていた山岸巳代蔵やヤマギシズムへの見解を大きく問い直し、見直すこととなった、そこから、現実顕地の展開の様相、特に学園問題のことを見過ごすわけにはいかないと思うようになる。


〈学園を遠い過去の問題として片づけずに、たえず現在の問題として振り返らずには、自分自身を前に進めることはできない。〉と、その問題が出てくる実顕地の体質や自分の見方にもメスを入れながら、考察・発言するようになった。

〈幸運にも『山岸巳代蔵全集』の刊行が決まり、その編集にかかわることができた。本づくりの必要上、何回も何回も原稿を読んだ。その時はよく理解できなくとも、何かの折にふと山岸さんの言葉が蘇ってきて、心に深く突き刺さることがある。こうした経験を何度か繰り返しているうちに、自分が固定観念の虜になっていることに気づかされる。自分の考えが正しいと自信のある時には絶対に気づくことはできなかったことだ。人間、時に悩むことの重要性を意識させられた。〉(「わくらばの記―病床妄語④3・15)

 

 もう一つは、最近の文書でも書かれていた「ガンが見つかってからこの一年半の間に、自分の人生の大半を占めたヤマギシでの生活について振り返り、大きく見直すことができたことは望外の幸せであった。」とあるように、長期にわたる入院生活を契機に、縦横無尽に思索を繰り広げられ、「ヤマギシ」のことに限らず、ご自身の心のありように引き付けて、様々なことを振り返り、大きく見直す一年半となった。

〈病気のもう一つの功徳は、病気をきっかけに自分の人生を振り返ってみようと思い立ったことである。何も誇るべきもののない、恥ずかしいような生き方しかしてこなかったが、その恥ずべき生き方を見つめ直せば、人間一般に通ずる何かが見えてきはしないか、と思ったのである。
 今は読みたい本を読み、書きたいものを書き、話したいことを話す毎日で、実に快適である。実顕地がそれを許容してくれていることは、本当にありがたいことだと思っている。〉(「わくらばの記―ごまめの戯言⑥10月」)

 

 このような経過と、食道癌による長期入院を契機として、「ヤマギシに関連して、自分が向き合わなければならないテーマについて、これから書き続けてゆくつもりです」と、その思いを『わくらばの記』として書き続けていった。

『わくらばの記』は「ヤマギシ」という枠を超えて、吉田光男さんの今までの生き方、癌など疾病や障碍を抱えた人の生き方、高齢社会や「老い」の生き方など、共に考えていきたいことが多々あるのではないかと思っている。

 

【参照資料】
〇「わくらばの記-ごまめの戯言」〈6月×日〉
 思想が思想として成立するには、それが世界性を持ち得るかどうかにかかっている。世界性とは、普遍性である。一つの考え方、一つの論理が、何ものかを代表するイデオロギー性を持ちうるとしても、ある地域、あるグループ、ある時代を超えて通用する普遍性を持ちえないとすればそれは思想にはなりえない。

 では、ヤマギシズムは思想たりうるか。山岸さんは、ヤマギシズムを「前進無固定の思想」であるとし、その中身をこう説明している。


「なんでもこれが真正だ、最上だとキメつけてしまって、それを信じこみ信じこませて、それを絶対間違いなしと断定して、考え直そうとしないで従い、或いは教え信じさせ従わそうとする宗教形式の反対の考え方で、どんなことでも、或いは間違っているかも分らないとし、或いは未熟ではなかろうかと、検べ、検べつつ、即ち真正・最上なりと信じこまないで、最も真正ならんとし最上ならんとして、真正最上を探ね乍ら、省み省みして真正へ最上へと進んで止まぬ前進無固定の思想である」

 これを山岸さんは「研鑽形態の思想」と言い、さらにこう続ける。
「ヤマギシズムを知り、これこそ絶対だという人が沢山あるが、そうキメつける処に宗教・信仰・盲信形態が生れる恐れがあり、そう思いこんでキメつけるなれば、既にヤマギシズムではなく、こうしたヤマギシズムの考え方そのものをも、正しいか正しくないか分らないから、尚調べていこうとする考え方がヤマギシズムだと思う。ヤマギシズムがよいとキメつけない処がヤマギシズムだと思う」(山岸会事件雑観)

 

 一切の決めつけを持たない研鑽形態の思想というのだから、実に頼りない。これこそが真理だとする頼るべきものが何もない思想、それがヤマギシズムだというのである。では、何が思想を思想たらしめる根本かと言えば、それが研鑽である、と山岸さんは言う。つまり、ヤマギシズムが思想としての世界性を持ち得るかどうかは、研鑽の有無にかかっている。”研鑽”という名の話し合いの方法ではなく、真理探究の生き方、あり方としての研鑽を行っているかどうかが問われているのである。

 私は何年か前に『山岸巳代蔵全集』の刊行に関わっていて、編集を進めながらある山岸さんの言葉に衝撃を受けたことがある。それは、次の発言である。
「どうもはき違い、聞き違いが多いわね。正確に聴き取ったという人は一人もない。みな、謂ったら誤解や。それがずいぶん邪魔するということね。……誤解が全部であり、曲解が相当あり、逆解釈もずいぶんあるということでかなわんが」(全集6巻、318~319頁)

 

 これは、山岸さんが亡くなる1か月ほど前の、名古屋で開かれた第9回「ヤマギシズム理念徹底研鑽会」での発言である。「正確に聴きとったという人は一人もない」と山岸さんは言い切っている。これは単に研鑽会に参加した会員だけに向けて言われた言葉ではないし、また当時の参画者だけを対象とした言葉でもないだろう。今の私たちはヤマギシズムの提唱者の発言を、どれだけ正確に聴き取っているか、聞き取ろうと努力しているか、と反省してみる必要がある。

 他人のことはさておき、自分を振り返ってみれば、私自身が「これこそがヤマギシズムだ」と信じ、決めつけてやってきたことばかりではないか。決めつけの上に立って、自他を律してきたのではないか。「誤解が全部であり、曲解が相当あり、逆解釈もずいぶんある」という山岸さんの言葉は、他ならぬ私自身に向けての言葉なのだ。と同時に、今の村人一人ひとりに向けての言葉でもある。山岸さんのこの嘆きを、私たちはもっと真剣に受け止める必要があると思う。

 ヤマギシズムが思想としての世界性を持ち得るかどうかは、決めつけのない、前進無固定の、研鑽形態の思想として、私たちがヤマギシズムを再生しつづけることができるかどうかにかかっている。