広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎山岸巳代蔵と山岸会、そして実顕地へと

〇ヤマギシ会、実顕地に関する覚書 (2016年10月記録の改訂)

・はじめに
 ブログに「山岸巳代蔵の思想についての覚書①」を書いた。それに伴って山岸会や実顕地の変遷について、様々な角度から見てみようと思った。この稿では、何故山岸会の運動が注目され、どのような要因が人を引き付けることになったのか、あるいは私が参画するようになったのか、大雑把に山岸会(後、ヤマギシ会)の誕生から実顕地へと、その流れをたどってみる。

 昨年神戸市に移住し、娘に紹介されて交流を始めた人はヤマギシ会会員さんで、生産物の窓口になっている。村(実顕地)で生まれ育った娘は生産物が気にいっていて、我が家はそこを通して定期的に卵を取り寄せている。
 現在その掲げる理想に共鳴し他所から参画する人はあまりいないようだが、村で育った子ども、若者たちもある程度いて活動を繰り広げている。その活動を支持する会員さんにも度々出会う。ヤマギシ会会員とは特講(特別講習研鑽会)体験を経てその運動に共鳴した人で、会員によって実顕地は支えられているという面もある。
 知人から、最近そこで開催されている研鑽会に参加して、よく考えることができてよかったとなどの印象を聞いている。特講の開催も続いていて、韓国、モンゴルなど海外からの参加もある。また、当時活躍していたが疑問を覚えて離脱した高等部1期生や元村人一家が戻っている。
 最近でも、そこの農業部門のひろがり、村の仕組みや村人が醸し出す気風に触れて注目する研究者もいる。

 

山岸会の誕生と『ヤマギシズム社会の実態』の発表
 1950年9月、ジェーン台風が京阪神を中心に猛威を振るう。あたり一望倒伏田の中、稲が見事に立ちそろっている山岸の耕作田を発見したのが、台風被害の実地踏査をしていた京都府の農業改良普及員の和田義一である。和田は普及員として米の増収に最も力をそそぎ、担当地区を視察しつつ指導して廻っていた。早速和田は山岸を訪れ、その人柄、考え方に触れ、これほど優れたものをここだけにとどめておくことの惜しさを痛感し、心進まぬ山岸を口説いて講演会などに引っぱり出した。

 やがて、その養鶏法や農法に魅力を覚えた人が結集し、1953年3月に「山岸式養鶏法普及会」と併せて「山岸会」が誕生する。(※これに関して先のブログに触れた)

「山岸式養鶏会」と改称以後も、毎月の月例研鑽会、全国各地での講演会や山岸養鶏の実地指導などで会は急速に膨張し、全国から照会・参観者が来集し、各地に支部が結成されるようになっていく。

 1954年に『山岸式養鶏法・農業養鶏編(前編)』を発行。さらに篤農家の集まりである「全国愛農会」や農村への農業技術普及や精神運動を展開していた「愛善みずほ会」の月刊誌『みづほ日本』に山岸式養鶏法が紹介され、農業界各方面から注目されるようになり、年度末には全国四〇以上の支部が設立されていた。

(※農業養鶏(山岸式養鶏)の魅力とその展開については、学術研究書として、古沢広祐『共生社会の論理―いのちと暮らしの社会経済学』(学陽書房、1988)に、注目すべき技術として紹介されている。)

 

 12月に入り、夜明かし会で『ヤマギシズム社会の実態』が発表され、これ以降「幸福研鑽会」と称するようになり、機関誌「『山岸会・山岸式養鶏会会報第3号』に掲載された。

 これは、それまでのような、養鶏の経営や技術の中に山岸の思想や哲学や方法論を織り込んで発表するものでなく、山岸の考える理想社会(ヤマギシズム社会)の構想やその実現方法を、包括的に、具体的に、初めて正面から発表したものである。この論考が発表された背景には、山岸式養鶏会の全国への急速な拡がりがあり、社会的にも山岸の思想が受け容れられる素地ができてきたという確信があったのではないかと思われる。これらの論文はその後、『ヤマギシズム社会の実態―世界革命実践の書』(「世界革命実践の書」)という一冊の本としてまとめられ、発表から約一年後1956年1月に開催される「山岸会特別講習研鑽会」のテキスト・研鑽資料として使用された。

 

・山岸会特別講習研鑽会(「特講」)開催
 山岸会に集まってくる人のほとんどは革命的だとうわさされた山岸式養鶏が目あてあったが、夜を徹して語る山岸の精神面の話に、食い入るように聴く人、様々な質問、疑問をぶつけてくる人なども増えていった。それが、第一回の山岸会特別講習研鑽会につながっていく。

 第一回特講は特殊な状況の中で展開された。ここで特講の目的や要点について簡単に述べてみる。特講の進め方やテーマなどは、開催時期によって違ってくるが、その目的や全体の枠組は一貫して同じ質のものが流れていると思われる。

 特講の目的は、①どんな場合も腹の立たない人であること、②零位に立つこと、③自他一体の理を研鑽し、④研鑽はすべての考え方の基本であり、すべての実行の基でもあるのではなかろうかと思考し、⑤自他一体で繁栄しようという理論、方法、実行はどうだろうかと研鑽する。などとなる。

 これらの目的で、一週間通して時間をかけてとことん考える、自分一人でも考えるし、他者とも一緒に考える。男女性別・年齢・育ちの異なる人々と、みながある程度納得するところまで徹底的に話し合いを続ける。この体験を通して、様々な人々が密室的なそれでいて親密な空間で寝食をともにし、一週間何でも出し合える気風の中で、徹底的に話し合いを続けていくと、係りも含めて参加者同士の一体感が深まっていき、自他の隔たりが薄れていく。

 

 鶴見俊輔は自らの特講体験に照らして、次のように語っている。
「けんさん(特別講習研鑽会)を私が受けたのは、40年前(1963年)のことで、それは今も私の考え方の底にのこっている。西洋渡来の学術語を使わなくとも、私たちの生きてゆくための重大な問題をこのようにして語り合う方法があるのか。そういう発見だった。
 そのようにしてくりひろげられる対話の中から、コロムブスの卵のように自然に、私たちのよりどころとしている共同性が、見いだされた。その共同性をどのように日常生活に生かすかは、むずかしい問題だが、一度見いだされた共同性から、私たちははなれるわけには行かない。」(「『山岸巳代蔵全集』刊行によせて」)

 

 この当時の社会状況は、1955年頃からはじまる高度経済成長のはじまりの時期と重なり、敗戦後10年を経て漸く社会が落ち着きつつあった。多くの人々にとっては、二度と戦争は起こしてはならない、争いや怒りのない平和な社会への希求は並大抵のものではなかったと思われる。その争いや怒りの原因が、それぞれの足元にあったという気づきは、身に迫ってくるものがあったのだろう。このことは第一回に限らず、戦争の記憶が生々しい初期の頃の特講に一貫して流れている基底音のようなものである。

 記録を見ると、第一回特講終了者のほとんどが、自分の喜びを家族は言うまでもなく近隣の人々にも分かち合いたく、寝食を忘れて特講参加への呼びかけに奔走しだした。その溢れるような熱意が伝わり、各支部、各家族から参加申し込みが殺到していく。3月に第二回が開催され、その後5月の第七回までの参加総数は千人を超えるようになっていった。
 特講参加者は大多数が農家の人々によって占められていたが、特講修了者からの紹介で都市からの参加者、教育家、各方面の指導的立場にある人などの参加もみられるようになる。

 

山岸会式百万羽科学工業養鶏(『百万羽』)とヤマギシズム生活実践場・春日実験地発足。
 特講を受講した山岸会会員は、理想社会実現を目指して、全国各地で支部活動を展開し、近隣・同業の人々を続々と特講に送り出した。その結果、特講受講者は急速に増え、1956、57年の二年間で4500名を超える。その中から、和歌山県有田郡金屋町下六川や山口県の大島で、現状そのままで農業経営を一つにした一体経営の動きが始まるなど、さまざまな動きが始まった。こうした運動の活発化を背景に、1958年3月、『百万羽』構想が発表され、具体化されていく。

 構想の要点をあげると、①新しい一体社会の建設と、生活一体の具現を目指す。②総合研究機関としての機能。③家・財産の全て、家族ぐるみの参画の形態。などとなり、各地で中心的に活動を行っていた会員たちが続々とそれに参画、8月から三重県阿山郡春日村(現伊賀市)に「ヤマギシズム生活実践場・春日実験地」が造られ、参画した有志会員による「一体生活」が始まった。

 

・「参画者はヤマギシズム同感の人々であって、生命ぐるみ、家族ぐるみ、知能・技術を含む有形無形一切の資産の全部をこの運動に投入し、その一部でヤマギシズム生活調正機関を作り、全人の公器として、最も有効に生かし、活かされることを喜び、幸福社会実現に生き甲斐を感じる人々である。
 そうした人々によって、一体家族としての研鑽生活が行われ、各人の特技・持ち味を互いに活かせる部署につき、全人の公器である有形無形の無限の資産を出資し、参画者自ら自分達で活用・経営しているもので、参画者全員が従業員であると共に、経営者である。」
「百万羽の羽数が揃ったとしても完成ではない。百万羽は単位的に一つの目標である。本当は養鶏業界のみならず、すべての人間幸福生活に貢献するのが目的である。世界全人の幸福を目的として鶏を飼い、すべての面に亘って研究所として経営しているわけである」
(『全集三巻』「山岸会事件雑観」―「五、山岸会式百万羽科学工業養鶏㏍について」p270より)

 

 1958年1月に『百万羽』構想がはじまり、3月に婚約発表をして構想が具体化すると、その事業展開は主だった人達にまかせ、自らの関心事は真の幸福社会実現のための愛情関連の探究であり、柔和子という伴侶を得て、一人も不幸に泣くことのない男女間のあり方・結婚観を理念的に確立することとその実証が、大きな課題となっていった。特に『百万羽』のような生活一体の組織では、愛情や男女間のあり方は、とりわけ大事な課題であり、まず自らの実践によって取り組んでいったと思われる。

 参画者の間からは、「愛情問題が『百万羽』の進展に非常に影響している。これがために、みな不安な気持ちになっている」との声が上がっているのに対して、山岸は、「これは生きるか死ぬかの問題であり、幸福への根本問題だ」と応えている。

 1959年1月になると、春日実験地は老人・幼児を含め総勢二百数十名となり、生活部、厚生部、建設部、飼育部、研究部、一般労務部、拡大部等々の部門が整えられ、実験地の外にも実践に出始め、資金調達活動を行いながら地域社会に溶け込んでいった。また、中学生までの子どもも百人を超えるようになり、子ども用の資料『百万羽子供研鑽会』も作られていた。

 

山岸巳代蔵の愛情問題。熱湯事件など
 1959年1月、『百万羽』建設活動と同時併行で山岸の愛情問題の探求が続いていたが、後に、「私の愛情の混乱から起こる狂態」と述べている「熱湯事件」が起こる。

 山岸が愛情を注いでいたY子のことで事実上の妻であった福里柔和子が話をし出すと、山岸が無理難題をふっかけ、更に大声で怒鳴ったり、大変な血相で迫って来たりする山岸の姿を見て、完全に気が狂っていると思った柔和子は、沸騰しているヤカンの湯を、オーバーのまま寝ている山岸の顔にかけたのである。顔が真っ白に焼け爛れた山岸は、すぐに病院へと運ばれた。幸いにして火傷は左耳の鼓膜が破れたぐらいですんだ。

 熱湯事件ほどではないが、これに近いことは、山岸と柔和子との間では度々起こっていた。想像的領域と現実とが混濁した精神病理学の対象になるような事柄である。この頃の山岸は、狂気と隣り合わせの世界にあったとも言える。

 山岸の不可解の言動はたびたびあり、近くにいた人を戸惑わせていた。特講などを通しての女性関係もたびたびあり、山岸の「女好き」「多情者」ときには「無節操」といった非難めいた噂が、会活動の進展にともなって出てくるようになった。

 当初山岸は特講に関わり続けていたが、同時期に特講世話係として関わっていた安井登一は、次のように語っている。「死にたいと言っていたり、雲隠れして心配させたり、毎回特講会場の後ろの方に知らぬ間に入ってきて、いつも私は大村公才ですと名乗って参加者を戸惑わせていたり、真意がよく分からなかった」(『山岸巳代蔵伝草稿』)

 

 精神の病態を一時的な疾患としてではなく、人生全体の示す歴史的な歩みとして位置づけた精神科医の木村敏は、「狂気の狂気たる所以は狂気を構成する思考や言説の異常にはない。それはむしろ、そのような異常な思考と言説によって自らの『真理』を表現せざるをえなくなるような『生きかた』の問題にある」(『偶然性の精神病理』)としている。

 このような言説に触れると、そういうことは言えると思うが、その当時わたしが山岸巳代蔵の近くにいたとしたら、おそらく違和感を覚えることも少なくはなく、ともに活動を続けていけただろうかとも思っている。
 全集刊行委員の中に、山岸の近くで活動していた人たちもいた。狂気のようなものを感じることもあったが、山岸のこのような面も包み込んで、理想社会をつくる運動を続けることには迷いがなかったという。

 

真目的達成の近道「急進拡大運動」(「急拡」)と偽電報事件。
 1959年3月に入って、山岸は春日から車で10分ほどの関西線柘植駅前の旅館(みどり莊)で療養する。その頃、山岸はおよそ50日ぶりに春日山に行き研鑽会に出席する。熱湯事件一連の出来事については、「今しばらく反省の期間を延長して、もっと心の整理を、心の傷といいますか、もう少し時をかして欲しいと思う」との発言がある。

 4月半ばになり、山岸は『真目的達成の近道』を発表し、「急進拡大運動」(「急拡」)を会に向けて提案した。その提案趣旨は、今までの漸進拡大から急進拡大運動に切り替えて、短期間のうちに全国の知事や国会議員、大臣、はては天皇さんにまで特講を受けて貰おうといった、あまりにも唐突すぎる内容であった。

 

「急拡」に対してはみなが賛成したわけではない。傍観する人、不安あるいは疑問を持つ人など様々であった。ただ集団というのは、ある方針のもとに動き出すと、そのまま突っ走ってしまう面もある。特に山岸の提案から始まり、推進的な立場の人がからんでいたこともあり、見直しをするような動きにはなり難いものもあったのだろう。

 それまでお寺や公会堂で開催していた特講会場を春日山に移し、6月に急拡第一回特講・第85回特講を開催した。この特講にどのようにして多くの人を寄せたらよいかと話し合ったとき、一家族一人以上送ったら百人以上の受講者ができるという話になり、それの具体的な方法として、親・兄弟や親類に偽電報を打って呼んだらどうかということになり実行した。だから、急いでかけつけた親族たちの大方は、特講を受けるつもりで来たのではなく、家族や親戚のものが病気だと思ったり、急用だと思って来たりした人ばかりであった。そこでの必死の説得があったりなだめたり、あるいは怒って帰ってしまったり、恐がって逃げ帰る人もいたりした。この特講受講者は102名であった。

 続く7月1日からの急革第二回・第86回特講の期間中に、家族などから保護願いが出され、警察は捜査に乗り出し、報道各社は連日のように取材することになった。
 7月8日に、三重県警本部は上野署に合同捜査本部を設け、この日講習会終えて帰郷するものから、不法監禁、脅迫、暴行の三点を中心に本格的な事情聴取をはじめた。

 

 この経過が、毎日新聞七月七日朝刊一面のコラム『余録』に掲載されている。

【山岸会養鶏法というのは、一部では注目されていたらしい。飼うのがかんたんで、タマゴもよく産む。しかもこの鶏フンで成育された稲が、水害に強かったという。これだけの実績があれば、その技術を覚えたいと思うのは無理もない。講習会には全国から人が集まった▲ところが講習会に出てみると、技術はそっちのけで、内容は一種の思想教育だった。朝から晩まで、猛烈な討論がかわされて、ヤマギシイズムをたたきこまれる。逃げ出そうとすると、駅まで追いかけてくる。講習は絶対に最後まで受けねばならないのだ▲講習に行っている者から、留守宅に病気だという電報がくる。親がおどろいて飛んでいくと、これも帰ってこない。受講者をふやす手段らしい。あとに残った家族が、警察に訴えた。こうしてこの不思議な組織が明るみに出た。警察も、新聞記者も乗りこんでいったが、どうも実体はつかめない▲家族はやっと受講者に会えたが、本人たちは「最後まで講習を受ける」となかなか帰宅を承知しなかった。すっかり洗脳されたのか、どういう魅力にとりつかれたのかわからないが、これでは監禁とはいえない。広大な荒地に、ともかく相当な農場を建設したのだから、いちがいにインチキ呼ばわりもできない。家屋敷や田畑を売って投資する会員もあるところなどは、狂信的な新興宗教のにおいもするが、農業技術に立脚している点は、それとも違っている▲ヤマギシイズムとは「われひととともに繁栄せん」がモットーだそうだ。豊富な物資と健康と親愛の情に満ちた社会を作り出すのが目的だという。その限りではまことに結構な趣旨だが「Z革命」とかで急速な社会変革をねらうのではおだやかでない▲会員や受講者はだまされているのだと断定するのは早すぎようが、強制と秘密がつきまとうところに疑惑が生まれる。正体が不明なのが何よりも不安なのである。山岸会に自信があるのなら、もっと開放的な手段はとれないものか。(毎日新聞1959.7.7朝刊『余録』)】

 

・山岸会事件
 この一連の動きに関して7月9日には、『百万羽』構想以来不満を抱いていた東加九一が、仲間四人を連れて大阪からかけつけ、山岸会執行部に、「こんなに社会を騒がして申しわけないと思わぬか。すみやかに反省して態度を改めよ」と強硬に申し入れ、ひともめする騒動があった。

 本人の話によると、東は網走の刑務所を出所してから、特講に参加することで生き方が変わったという。特講後彼は、山岸会本部事務局メンバーとして、主に拡大強化部にいて、『快適新聞』の論説委員を1959年の3月まで担当していた。『百万羽』出現による各支部有力メンバーの参画が会活動を機能弱体に陥らせると見ていて、毎号のように会運動についての意見を寄せていた。また会運動一本化の動きにも烈しく批判していた。

 翌11日午前中に、東氏が参画者の二人に刺されるという傷害致死事件が起きる。直ちに近くの病院に収容されたが重体、翌日午前、出血多量のため亡くなった。
 この二人は、この年の12月に逮捕され、1961年1月に殺意なしの「傷害致死」と認定されることになる。

 この頃の山岸会には、特講や山岸巳代蔵に魅かれて、種々の多彩で個性的な人達が集まっていた。それは大きな活力を生み出していた一つの要因でもある。そのようなことからも、排除の論理がはたらいていたこの事件は、乗り越えねばならない大きな問題を孕んでいた。

 

 一方山岸は、13日に髭をそり、総入れ歯をはずし、ひそかに春日山を離れ、名古屋の会員加藤巷二の世話で各所を転々とする。7月24日に三重県警は山岸を全国指名手配した。

「急拡」には、その頃の山岸の影響が色濃く表れていると思われる。熱湯事件後の心情の高揚もあったのだろう。想像上の直感に対して充分に検証をせずに、実行となる傾向もあったのではないだろうか。想像的な能力は、逆に破壊的な作用をすることもある。
 この頃に書いたものや口述したものには、精神の異常な高揚が感じられる記録や発言もあり、近くにいた人たちにも、容易にはかりかねる言行があったようである。

 

『正解ヤマギシズム全輯』の著述に専念、その渦中に自意出頭する。
 この一連の動きについて9月の『快適新聞』(山岸会の機関紙)は、「山岸会事件と急拡への反省と今後のあり方」で何人かの発言を記事にしている。「情熱のほとばしり」説、「誇大妄想狂的な間違った方法」説などある中で、山本英清は「我々には研鑽がある・やってみなければわからぬ・意欲さえあればやれる、などよくいうことだが、これらは謙虚な本当の研鑽(話し合い)に精進出来ることを前提としなければ、これほど危ないものはない」と述べている。

 生涯を貫いて、つねに新たな可能性に向けて思索を続け、実験計画をたて、試行錯誤を繰り返し、数々の失敗や間違いから学び、本当のものを求めつつ歩んできた山岸は、この酷い情況から、いくつかの大事にしなければならない課題が見えてきて、次なる可能性を求めて、晩年の精力的な活動がはじまったのでないだろうか。 

 事件以後、地方会員も白眼と悪罵にさらされた。春日山では武装警官の包囲、数回にわたる手入れ、裁判対策など様々の困難に遭遇した。特別講習研鑽会は1959年7月から中断され、「ヤマギシズム生活実践場・春日実験地」は、事件とその後の9月の伊勢湾台風による壊滅的な打撃の影響もあって、窮乏生活の最中にあった。参画者の中には、資金難から縁故者の所に一時的に身を寄せたり、資金を稼ぐために土方に出たり、女中奉公をしたり行商に回ったり工員になったりする者もいた。事件後の動揺の中で運動から離れる者もいた。しかし、そうした悪条件にもくじけず、北海道の開拓地に入植するもの、またある者は東京や津市での特講開催を準備しつつあった。

 

 一方山岸は、会員宅など各地を数箇所回り、9月に滋賀県大津市堅田に移り、翌年4月に自意出頭するまでここに住むことになる。2008年に私たちが堅田を訪れたときには、すっかり住宅地になっており、山岸の暮らしていたトタン造りの長屋二軒をぶち抜いたという家は既になくなっていた。当時この地は、大陸からの引き揚げ者用の住宅があった場所で、種々の人々が住んでいて、地元の人も、誰が住んでいるか分からないような所で、潜伏するには適した所だったようである。

 この堅田期間は山岸にとって大きかったと思われる。様々なことを見直し、検証し、充分に思索を重ねることになる。山岸の思想の主だった著作は第一回特講以前と1959年9月からの堅田時代以降に集中している。堅田期間中は主に、『正解ヤマギシズム全輯』関連の著述に専念することになる。しかしながら何といっても指名手配中の身であり、原点に立ち返って考える必要があった。第一回特講以後、めまぐるしく動く運動の渦中にあったが、漸くにして、じっくり思索・検証できる時間ができたのである。

 

 1960年4月、山岸巳代蔵は、「声明書」を書きあげ自ら警察に出頭し、三重県の上野署へ連行され、上野署では記者団に「声明書」を配る。
 また出頭に備えて、山岸会事件について考える資料として『山岸会事件雑観』の原稿が口述筆記で3月中にでき上がり、翌4月に発行される。この小冊子では、ヤマギシズムとその運動について、「私はヤマギシズムをこう思う」など多くの人に理解しやすいように諄々と語られている。

 22日、山岸が心筋梗塞を訴えているため身柄を釈放され、身元引受人には柔和子がなった。その後は津市の旅館「金波荘」を居住地にして、身柄不拘束のまま取り調べを受けた。
 半年後の1960年10月、津地検は、「山岸会事件」について山岸を脅迫の疑いで調べをすすめていたが、起訴猶予処分にすることを決めた。

 

「ヤマギシズム特別講習研鑽会」実施と「ヤマギシズム理念徹底研鑽会」(「理念研」)について。
 身柄釈放後の6月に、山岸は三重県津市阿漕の一軒家「三眺荘」を借りて、柔和子と婆や、側近の奥村通哉らと住んだ。三眺荘は翌年5月に岡山で逝去するまで山岸の生活の拠点となった場所で、7月からヤマギシズム理念徹底研鑽会(『理念研』)が行なわれた。

 順調に会員を拡大しているように見えた山岸会の活動は、山岸会事件を境に一つの転機を迎えていた。事件以後表立った組織的活動こそ見受けられなかったものの、山岸会会員は地道な活動を続け、和歌山県、三重県、山口県、長崎県などでの一体経営を目指した動きや、東京に出向いてヤマギシズムを社会に広く紹介していく活動などが活発に行われていた。一方で、ヤマギシズム生活実践場春日実験地も、山岸会事件やその後の伊勢湾台風等の壊滅的な打撃による窮乏生活を乗り越えて、次第に一体生活の顕現へと向かって歩き始めていた。

 1960年8月に東京で、事件以降初めてのヤマギシズム特別講習研鑽会(第88回)が実施された。これは「ヤマギシズム」という一つの思想を前面に押し出した内容のものを、学者や政治家なども含めた知識人層に呼びかけて行われたものであった。東京特講前後の運動をきっかけとして、思想研究を専門とする学者達の間にも山岸会の存在が知られるようになり、「ヤマギシズム」を対象とする研究会が発足するといった動きも起き始めていた。それについて松井そのが、手記を書いている。

 

「昭和三五年五月東京へ行くことになって、先発の人達のいる渋谷の宿舎におちついた。7月になっていよいよ東京で特講が本決まりとなり、私は真剣に会活動に奔命した。寸暇を惜しむ東京人に一週間の特講をすすめる事は容易な事ではなかった。十人近い私達婦人班は毎日真夏の炎天下をかけ廻った。八月二三日からの特講日には、某国大使館員、社会党の青年、学生、有名婦人、政治家、学者、教授、社会運動家、宗教家、法律家、共産党員、思想科学研究家、右翼人、左翼人、警察関係の人等様々な階層の人が集まった。……
 九月以降は日曜祭日を利用して機会あるごとに学者、政治家、評論家等の「ヤマギシズム研究会」をやってみたが一日や二日では本当の話し合いにならない。人を知り合うだけである。やっぱり一週間の特講の必要性を痛感した。……私たちはどこまでも自活自営の実践生活を続けながら足を地につけて活動を続けた。(『ヤマギシズム』八八号「私の活動十ケ月」)

 

「急拡」構想が出された1959年4月に、安保阻止国民会議統一行動が始まり、60年6月には、安保改定阻止第一次実力行使に、多くの国民が参加した。15日になると全学連主流派四千人が国会に突入,警官隊と衡突.東大生樺美智子さんが死亡する。そして23日に新安保条約が発効された。その後の空白感の中で、松井その、渡辺操、川口和子などに触れて、資本主義でも社会主義でも共産主義でもない、宗教団体とも異うヤマギシズムに関心を持つ人が次第に現れ、着実に人から人への一粒万倍方式で会運動が浸透していくことになる。

 こうした様々な動きの中にあって、「理念研」は約十ヵ月にわたって続けられていく。その参加メンバーは、当時ヤマギシズム運動で中核を担っている人や会員間に影響を持つ人々であった。運動を中心的に進めていくメンバーの中でこそ、真のヤマギシズム理解や「一体」となっての実践が必要不可欠だと考え、山岸は「理念研」という機会を設けた。この「理念研」が始められた1960年7月は、山岸会事件から約一年が経過していた。それまでは「養鶏」というキーワードで語られることの多かった山岸会活動が、思想的にあるいは社会活動の一つとして認知されていく過程の中にあった。

 

ヤマギシズム生活実顕地の誕生、そして山岸巳代蔵の死去。
 1960年10月に、保釈中にもかかわらず和歌山県の下六川の杉本雄治宅に出向いて、一体経営から本当の一体でやる「ヤマギシズム生活実顕地」をやってみたらどうかと提案する。
「ヤマギシズム生活実顕地」は、春日実験地のように家屋敷を売り払って一ヶ所に集合する形態でなく、現状そのままで生活そのものを一つにしていく、財布一つの金の要らない楽しい村の試みであり、この頃から「ヤマギシズム生活実顕地」への動きが各支部間に広まっていく、

 また、実顕地をつくろうとしている会員やその周囲の会員に対して、ヤマギシズム生活実顕地だけでなく、研鑽学校・試験場・振出寮など一体生活を成立させるための機構と、その元となる心のあり方について、 実顕地造成が進む一方で、社会に向けて広くヤマギシズムを打ち出していく活動も、同時に展開されている。

 1961年1月末に、実顕地第一号として、兵庫県加西市にヤマギシズム生活北条実顕地が誕生。その後、各地に実顕地が次々と誕生することとなる。

 同時期に、実顕地に関連して「ヤマギシズム社会式養鶏法」が発表された。この養鶏法は、これまでの農業養鶏法とは違い、無所有・一体、完全分業の「ヤマギシズム生活実顕地」を基盤とする養鶏法であり、『山岸会養鶏法・増補改訂・農業養鶏編』(全集第一巻所収)にその発表を予告していたものであった。同年四月の『ヤマギシズム』紙〈意見の広場〉欄には、研鑽によって個々の囲いを無くし、ヤマギシズム実顕地の造成をと呼びかける趣旨の原稿を掲載している。

 

 こうした著作や記録からは、最晩年の山岸巳代蔵が、胸に秘めていた幸福社会実現の具現方式であるヤマギシズム実顕地構想を、情勢を見ながら、その受入れ準備の出来る段階に応じて打ち出してゆく姿を読み取ることが出来る。

 その動きの渦中にあって、山岸は次第に身体の健康を損なっていく。にもかかわらず、自分の思想や具現方式を出来るだけ伝えようと、体力の許す限り各種の研鑽会に出席した。そして、4月末に、山岸はその終焉の地となる岡山へと旅立つ。

 山岸は、1961年5月1日から実顕地を造成しようとしていた岡山県興除村において持たれた『科学・研鑽態度について』、『実顕地養鶏法発表会』等の研鑽会に出席した後、5月3日に引き続き当地で行われた『一体高度研鑽会』に出席していたが、午後五時三〇分、発言中に頭痛に襲われ、くも膜下出血で倒れた。そして1961年5月4日午前零時五〇分、そのまま帰らぬ人となった。享年五九歳であった。
(この論考は、『山岸巳代蔵伝―自然と人為の調和を』に、ある程度詳しく触れている。)

※その後の活動の基盤となる『ヤマギシズム生活中央調正機関』や『ヤマギシズム世界実顕試験場機構』など山岸の死後に発表された。これらの発案が山岸によることは間違いないとしても、最終的な文書の作成にどこまで関わっていたかは不明である。
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 ここまでのことをふまえて、次の考えていきたい課題をいくつかあげてみる。
 現在の実顕地は山岸巳代蔵が構想した理想と随分違ったものになっていると思うが、この時期の様々なことは、その後の農業部門の広がりや村の仕組み、気風などにつながるものがあるのではないかとも思っている。

・各種分野で〈理想〉への希求が強かった戦後の時代背景のなか、農民主体で山岸会が誕生し、その後も多くの農家、農民によって基礎がつくられていく。この時代背景に照らして山岸会の掲げる理想をみていく。

・〈特講〉で体験した「研鑽方式」で考えていく理想社会への希求と農業を基盤とした生活形態に支えられていた。概念(ことば)より以上に、農民たちが感覚的に共鳴することから会員活動、参画に繋がっていった。

・第一世代が苦労を重ねて基礎を作り、山岸死後、遺志を受け継いだ第二世代は、より基盤を強固するべく経済成長に力点を置き、生産物運動が軌道にのるとともに、思想面の現実に照らしての検証が疎かになった。

・山岸巳代蔵への〈権威〉が研鑽力を鈍らせていた。権威は自発的にそれを感じる人に生じ、ある人や思想に対して強烈に作用すると、判断を依存する体質になり、思想そのものを吟味するのを遠ざけることになる。

・2000年前後、有志による『世界革命実践の書』の輪読会が継続し、研鑽すればするほど今の実顕地の可笑しさが浮き彫りになり、参画者の大量取消を生み。その後、「アズワンコミュニティ」につながっていく。

・理想を掲げた集団のもつ危うさと異常性。「急拡」や偽電報などを触れると何とお粗末なとなるが、その後も学園問題に限らず随分おかしなことを行っていた。自らの体験に触れながらその要因を見ていこうと思う。

・実顕地のような特殊な集団では、その価値観や物事の捉え方など指導的立場にある人に影響されてしまう。また、周囲の人との同質性を求めがちになり、自己実現欲求よりも承認欲求が色濃くでてしまいがちになる。

 今はここまでにする。できる範囲で様々な角度からヤマギシ会と実顕地のことをみていきたいと思っている。

 

【参照資料】
〇古沢広祐著『共生社会の論理』から抜粋
 1953年ごろから西日本を中心に農村部で「山岸式養鶏」と呼ばれる養鶏法がかなり普及した。この養鶏法は別名「農業養鶏」ともよばれるもので、山岸式鶏舎という日光の差し込み、換気、敷きワラ床などに独得の工夫がこらされた平飼い鶏舎で飼う方式である。また、育雛(ヒナを育てる)法でも独得の改良を加えた踏み込み温床育雛法が工夫された。養鶏が農家の経営の循環、あるいは肥料の自給といった物質循環に巧みに組み込まれ一体化している技術として、大変興味深いものであった。自国の土地と風土にもとづいた独特の畜産技術、農業発展の芽が、養鶏部部門でもかなりみられたのであった。―中略―
 以下「農業養鶏」のなかで追求された合理性がいかなるものであるかという点に注目して考察をすすめてみたい。
 そこでは有機質肥料である堆肥づくりが独立した仕事となっていないという点が、大変重要であるように思われる。時間の経過とともに、労働力をかけずとも、有機質肥料が自然にできあがるのである。普通、有機農業というと、有機質肥料をつくることにたいへん手間をかけねばならない。その点から考えて、画期的である。
 そしてそれと関連するが、卵あるいは肉の生産という単一の局面だけで養鶏がとらえられていないことも、基本的に重要な点である。いわば多目的の価値、多面的な効用を同時に生みだせるように工夫されているのである。
 鶏の健康的な生育環境の形成、鶏舎の独特な工夫、糞尿処理、堆肥づくり、ワラや野菜くず、残飯、あぜ草などの利用、農家の家族労働力の有効利用、どれひとつとってみても、すべてが生かしあう関係として多面的に結びつくよう工夫されている。鶏が健康に育ち、農家の経営全体としても有機的な結びつき(連携)が形成され、鶏肉や卵の生産ばかりでない多面的な効用が生じるよう、配慮されているのである。この有機的連関性こそが注目すべき点だと思われる。――以下略
(古沢広祐『共生社会の論理―いのちと暮らしの社会経済学』(学陽書房、1988) 

※山岸式養鶏そのものは、その後より規模を拡大した飼養形態(社会式養鶏)に向かったことから、1960年ごろから山岸会とは独立して「農業養鶏」を中心とした組織化が起き、「全国農鶏連合会」(本部京都府)が発足する。それは山岸会初期の中心メンバー藤田菊次郎、柴田利雄などを中心とした技術的な交流を主としたものであった。1963年になり「農業養鶏」のよりいっそうの普及化と連合会の組織を一新するため「全国農鶏会」が発足する。技術講習会が各地で開かれ、全国に地方会が出来、会員も1500人ほどになった。