広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎理想を掲げた集団や実顕地についての覚書(2)

〇ある事例から(Cさんからの聞き書き1)
 ヤマギシズム実顕地の学育、学園で活動していたCさんと話をする機会があった。

彼女は10年程、一番大きな実顕地(豊里G)の学園の係りなどをしていて、その頃のことが係として、また自分の子どもたちの現状を見ても、精神的に極度の痛みになっていて、とても話題になっている『カルトの村で生まれました』を読むことができないという。

 それでも、あれはどういうことだったのかと問い続けていきたい気持ちはあり、私との話し合いになり、そのコミックエッセイの背景を裏付ける話が続いた。

 私に引き付けていくつかのエピソードに触れていこうと思っている。勿論文責は私にある。

 

【事例1:学園の高等部生に、学究旅行(一般でいう卒業旅行のイメージに近い)という、遠くの実顕地を活用しながらの機会があった。彼女は三重県から秋田県の実顕地への行程に世話係としてつきそいで一緒にいった。

 秋田県にある実顕地の村人から、この機会に著名な秋田県を拠点にしている「わらび座」の公演を見たらいいよといわれ、彼女も同意して、その企画をすすめようと準備した。

 そのことを知った、学園全体をみていたAに酷く怒られたそうである。村の学園生に、一般的なそのようなものを見せるとは何事かという強い口調だったそうである。

 彼女にとって、Aや学育全体に影響力を駆使していたBに叱られることは、世話係としての自分の在り方を否定されることでもあり、この事例にかかわらず、この人たちの評価はそれとなく気になっていたという。

 ヤマギシズムズムの理解が浅い私が、ヤマギシズムの理解が深い人から注意を受けたとの認識でいたし、きつく叱られた時は、酷く落ち込んでいたそうである。】

 ある信念のもとに形成された集団によく見られる権力構造でもあるだろうし、その頃のこの組織特有の現象でもあっただろう。

 組織の方針を中心になって進めているリーダー的な人が、その方針からずれた人に叱責を加え、叱責されたことが続くと、そのひと固有の個別性が失われれ、自分の素朴ともいえる考え方・感じ方を、より組織の方針に合わせるようなひとになっていくのではないか。

 そうならずに抵抗をし続けた人、抵抗をし続けたと思われた人は、その組織を離れるか、方針にさほど影響されないと思われる部署に配置がかわるケースも少なからずあったと思っている。私自身、組織の人事をしていたこともあり、このようなケースには当然責を負っている。

 

 次に取り上げたいこととして、この頃の方針そのものが、組織の初期の頃に掲げていた理念と、真逆のことをしていたということがある。

 実顕地の根幹となる考え方に、「われ、ひとと共に繁栄せん」、「すべて研鑽方式で(かいつまんでいうと、あらゆることを一切の捉われを自覚しながら徹底的に考え抜く・話し合う)」がある。(※このことは、別の機会にみていく)

 初期にはこのような理想を掲げた組織が持ちやすい欠陥を憂慮した運営方針もあったが、ほとんどといっていいほど形骸化していた。

 Bさんとは、一緒にいろいろなことを進めていく立場にいた私にも、心当たりがあるようなエピソードである。私自身も同じようなことをしていた面もあるだろう。

 私自身は、Bさんから様々な面でお世話になり、ある種の魅力を覚えていた。その人を支持する人も少なからずいて、その影響力はかなりのものがあり、実顕地の中でその力を発揮できる立場につき続けていたことも、その傾向を増長したのではないだろうか。この辺りは自分自身の問題でもある。

『カルトの村で生まれました』の中で、さらにそれを裏付けるような数々の証言から、私が解明していきたい課題に、人の持っている多面性が、その時の状況・情勢で、その人のどのような面が際立っていくのかがある。。

 実顕地構成員にはいろいろな個性の人がいたが、ほとんどの人がある程度じっくり考えた末の参画者であり、思考体質や感性も私と似たような面もある人も結構いただろうとも思う。実顕地を離れてから、会う機会があると懐かしく感じ、じっくり話を交わしたりしたい人も少なからずいる。

 私から見たら、取り立てて悪意のある人は少ないように感じていた。しかし、この著作に出てくるような世話係、そのような傾向の人が少なからずいて、しかもその頃の学園を仕切っていたとの証言、その中には、あの人もそうだったのかということもあり、心苦しい思いが出てくる。

 私自身学園のことには、直接関わっていなかったが、そのような現場にいたら、どのように振る舞っていただろうか。その現場にいた人たちが直面した環境はどのようなものであったのか、問い続けることの必要性を覚えている。

 

 アウシュビッツの経験を問い続けたプリーモ・レーヴィに、「ありとあらゆる論理に反し慈悲と獣性は同じ人間の中で同時に存在し得る」(『溺れるものと救われるもの』(竹山博英訳、朝日選書)というような表現がある。ごく普通の人たちがナチス体制を支えていたとの記述がいくつか見られる。

 自分自身を振り返っても、様々な面があり、〈善・悪〉あわせ持っていると思っている(なにが悪でなにが善であるのかはいい加減な面があるが)。その自覚のもとで、少なくても「悪」の面を他に及ぼすことだけは避けたいと願っているのみである。

 ここで課題にしたいのは、同じ人間が、どのようなときに「善性」が働き、どのような経緯で人を思い通りに制御するような「悪性」のようなものが色濃くでてくるのか。その態度はどのようにできてくるのか、その頃の自分にも引き付けてじっくりと見ていきたい。

 参画者による実顕地の暮らしでは、『カルトの村で生まれました』に描かれているような、体罰や食事抜きなどのことは、私の知っている範囲では全くなかった(精神的な圧迫感を覚えていたひとはいただろう)ので、その頃の学園の実態に殊更愕然とするものがあった。

 だが、その頃の実顕地に、そのようなことになるような構造があったのではないかと考えている。そのことは、その構造の一端を担ってきた自分の課題にもなってくる。