広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎奥村通哉さんの死去 

〇​ 昨日(6月29日)奥村通哉さんが逝去された。
 6月に入って、知人のO氏から、奥村さんの容態について連絡を受けていました。12日には入院、点滴となり、電話で連絡したところ、食欲が全くないと仰っていましたが、意識も記憶力も鮮明で、一先ずは安心しましたが、早いうちに見舞いに行こうと考えていた矢先の、吉田光男からの訃報の連絡でした。
 吉田さんは「5月末から、川口和子さん、奥村きみゑさん、そして通哉さんと、相次いで初期のヤマギシズムを支えた人たちが世を去りました。一時代が終わったことを告げるかのようです。」とメールにありました。

 通哉さんとは、『山岸巳代蔵全集』の刊行委員として、8年間程定期的にお会いする機会があり、その後も『山岸巳代蔵伝』の執筆、出版の過程で、度々連絡を取り合いました。その刊行をとても喜ばれて、2012年2月のヤマギシ会総会で紹介しようと一緒に動いていただき、それが最後の出会いとなりました。
 その後も、電話、手紙で交流していました。よりよい社会や山岸巳代蔵の思想を次代に繋げようとの意欲、熱意や鮮明な記憶力は最後まで衰えを見せることがありませんでした。

 実際家の山岸巳代蔵は口述記録が多く、全集刊行にあたって、当時その口述筆記を担当した通哉さんに確認しながら進めていったことが多く、その明晰な記憶力、思索力に感嘆すること屡ありました。 
『山岸巳代蔵全集』のような大事業は、数多の人の関わりが必要ですが、その熱意と持続の担い手として、通哉さんの存在が大きかったと思います。
 それにしても、福里美和子さん、川口和子さん、通哉さんと刊行委員の方々がお亡くなりになることに、寂しい思いが湧いてきます。

 

 先のヤマギシ会総会の最後に、通哉さんが次のように発言されました。
「CO2や原発、核兵器の問題が無くなっても、我執が無くならない限り、人間社会はそうならない。真目的からみたら、時間をかけて取り組む問題ではなく、まず自分の我執をなくす、そのために自分はどういう取り組みをしているかが大きな課題となる。山岸先生は自分の我執をなくすことを、ものの始めとしようとまで言ってらっしゃる。この機会に自覚して5月3日のご命日を迎えましょう」

 これは終生通哉さんが願っていたことでもあり、もっとも基本的な考え方だと私も思っている。山岸巳代蔵の思索の根底は、端的に次のように考えている。
「まず自分の我執(自分の観念に執着し固定する状態)をなくし、相手がどうあろうとも、あくまで理智的な、やさしさ一色のけんさん(徹底的に自分で考え、よく聴き、対話を重ねる)で、みんなの仕合せの世界を作ろう。」

 

【参照資料】
※『山岸巳代蔵全集』第五巻の巻末に、奥村通哉さんにインタビューをした記事があり、その始めの部分を載せておきます。

○(インタビュー)「理念研」の周辺――奥村通哉氏にきく
――今日は、ヤマギシズム理念徹底研鑽会の参加者であり、筆記録を担当された奥村通哉さんに、一九六十年七月にこの研鑽会が開催されるようになった当時の状況や、三眺荘時代の山岸巳代蔵の姿や暮らしぶり、筆記にまつわるエピソードなど伺えたらと考えています。
「理念研」の前の山岸さんの動きは、一九五九年七月のヤマギシ会事件の後、秋から翌年二月末にかけて『正解ヤマギシズム全輯』の執筆に着手し、三月には『山岸会事件雑観』を執筆、四月には三重県上野署へ出頭し『声明書』を発表、その後津市の『三眺荘』で柔和子夫人との生活を始めるわけですが、通哉さん自身は一九六〇年一月に、当時滋賀県にいた山岸さんもとへ行かれ、『正解ヤマギシズム全輯』の口述筆記をされてますね。

奥村:指名手配中のことですから、先生は「ひとりになれた機会に、出来ることを」と書き出されていたようですが、私が行くことになってからは、ほとんど口述筆記になってますね。

 

――『山岸会事件雑観』については、山岸さんが出頭する前に、社会に向けて、「山岸会とは」「ヤマギシズムとは」を出来るだけ平易な表現で出しておくという意図があったのでしょうか?

奥村:どう思って書かれたかは分かりませんが、山岸会事件について考える資料として、ちょっとまとまったものを書いて出しておこうということでしょうね。出頭前の心の準備でもあったのかもしれません。とにかく、私自身も指名手配されていましたから、私が出る前に「雑観」の原稿が出来あがりました。
 それが誰の手を経たかは分からないが、私が出頭する日、打ち合わせてあった名古屋のテレビ塔の下に行くと、坂本茂さんが来てくれて、「通哉さん、こんなものが出来ましたよ」と嬉しそうに見せてくれました。それが紛れもない直前まで口述を筆記していた『山岸会事件雑観』の原稿だったのには、私もちょっと驚きました。その十数日後に山岸先生が出頭されましたから、「裁判中の事件解決のための参考資料に」という意識があったとみてもおかしくないでしょうね。

 

――山岸さんが出頭されるのが四月一二日で、「理念研」が始まるのが七月二〇日ですね。出頭前後の山岸さんと、その身辺はどのような様子でしたか?

奥村:先生は一九五九年夏の山岸会事件の後、出頭されるまで、外部との接触の少ない期間があって、その時『正解ヤマギシズム全輯』の執筆に着手されたものの、間なしに自ら出頭されて、事件は解決の方向へ進んでいきました。しかし、山岸会活動は事件によって火が消えたようになっていたし、春日山も有力メンバーの多数が拘束された後、起訴されていて、立ち上がるのに懸命の努力をしていました。そこへ出て来られたわけですから、著述どころではなかったと思います。
 当時は、事件のことを、真相が分からないことが多いのに、マスコミがいろいろと採り上げ、会に対するよくない噂も流されて、会員も動揺し、会活動は閉塞して組織立ったことが出来ませんでした。一回や二回ぐらい特講を東京でやっても、会組織の活動を復活するところまではいきません。そこで、会活動に影響力のある人達の誤解を先ず解き、理解を一つにして、その上で、現象面に執われずに、「最も重要なことは何か」ということが肚に入った上で、一体にまとまってこそ、世界にも打ち出すことが出来るわけです。

 先生にしたら、一体社会のコモトになる、一組の本当の一体の実現、すなわち柔和子夫人との一体が、著述より何より先決であったと思います。と同時に、「これ」という人達が先ずコモトになる。そのコモトを正常にして、そこから波及していく活動が原動力となる。そういう先生の見通しから見たら、先ずその人達と寄る機会を持つことが大切になる。で、「誰がよかろうか」となって、「理念研」の参加者が選ばれたのだと思います。直接事情を聞いているわけではないですけれど、前後の経過から今思うと、そういうことではないでしょうか。
(『山岸巳代蔵全集』第五巻、山岸巳代蔵全集刊行委員会、2006より)

2015年6月30日記