広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎気が置けない仲間との交流(2)

〇われ、実顕地とともに繁栄せん

 25年余所属していたあるコミュニティ(ヤマギシズム実顕地)の仲間と寄る機会があり。それぞれの近況を語り合いながら、当時(15年ほど前まで)の実顕地のことを振りかえった。

 いずれの方もそこを離れて15年~20年以上たっている。そこを離れるについては様々な経過があったと思われるが、そこに対しての問題意識を感じている人が多く、私にとって、もっと考えていきたくなる視点もあり、そこをみていこうと思っている。

 実験地についてこれまでもたびたび触れてきたが、そのようにする私のことに触れる。

 長い間私は、そこでは様々なことを進めていく立場にあり、少なからず影響を与えていたのではないか、もっと自分のやれることがあったのではないかなど、後悔のようなものを感じている。
 同じようなことを繰り返さないために、失敗から学ぶことや学びほぐすことを、欠かすことができないと思っている。

 一方、そこで出会った人から様々な影響を受けている。現在でも交流を重ねている知人もいる。現在実顕地に暮らしている、いないに関わらず、共に歩んだ人々には懐かしさや親しみを覚えている人も多い。そのようなことも含めて、整理しておきたい。

 

 15年以上たっても、そこでの体験が重い負担となって悶々としている人も、私の身近な知人も含めて少なからずいることも、私とは関係ないなどととても言えないと感じている。そのような負の要因をのりこえて、どの人も幸せな人生を歩んでほしいと願うのみである。

 特に、特別講習会を経て自らの意思で参画してきた親たちに連れられて、実顕地に暮らすことになった子どもについては、特にその学育方式があまりにも特殊なものであったので、その後の育ちに複雑な影響を残すことになるケースも度々聞くことになる。

 一方、日本で生まれたコミュニティの中では、特異な試みもあり、なんともお粗末なところもありながら、様々な見直し、試験・研究を重ねることができれば、面白くなるような可能性も感じていた。

 現在でも農業法人として収益をあげているようで、そのことに注目している研究者などに取り上げられていて、様々な角度から考察するに与えするようなところだとも思っている。
 実顕地を語ることは、理想を掲げた組織に限らず、一般論としても、組織の陥りやすい欠陥も色濃くあり、そこをきちんと分析しておくことも大事ではないかと感じている。

 いずれにしても、理想を掲げた組織に限らず、社会での何かの集団には所属しているので、そこでの一人ひとりのあり方、私自身のあり方までの射程を心において、行きつ戻りつ、とりあげていきたいと考えている。

 

 ヤマギシ会会旨は次のようになっている。
【・山岸会会旨 〝われ、ひとと共に繁栄せん〟
私達は、諸事を考え行うに当り、その正確さを期するために、それの判定に、この会旨をもってします。その思い為すことが、果して終局に於て、自己を含めた社会の永遠の幸福・繁栄に、資するものであるか、どうかを検討し、一次的(自己一代、及び自己の周囲のみの)目前の結果にとらわれないように、心しております。】


 濃淡はあるにしても、参画者の多くは、ある程度その趣旨に共鳴して参画してきた。

 今度の話し合いで改めて感じたのは、「われ、ジッケンチと共に繁栄せん」で活動をしていたのではないかと。実顕地が繁栄すること則、自分たちの暮らしがよくなることと、短絡的にとらえていることで、「われ」と共にというよりも、ひたすら実顕地の繁栄をめざしていたと言う方が当たっているかもしれない。

 何せ、立派な建造物ができるたびに、記念行事がなされ、村人たちの中には、その方向性にある種の手ごたえを感じていた人も多いのではないだろうか。
 ちなみに、実顕地を離れた50代、60代の人は、その年齢での就職ができやすい介護職についた人が多い。その人たちから見て、高齢者、障害者にとってはあまりにも使い難いもので、離れてみてみると異様な建物になっているそうだ。

 また、あらゆることを徹底的に探り検討するという、実顕地の運営の手段として最も要となる「研鑽」も、結局のところ、目前の結果に左右されながらの、実顕地の繁栄、安定のための検討ではなかったのか。

 社会との関わりでは、組織が大きくなるにしたがって、あらゆることを実顕地の方に引きよせる方向で動いていたと思われる。
 参画者・村人とその親族への接し方、ヤマギシズムに関心を抱いた学者・研究者・実践家などの扱い方、第三者にその方向性を検証してもらうこと、経理の監査、地域社会や一般社会でおこっている問題を共に探っていこうとすること等、殆どなかったと思われる、
 そこに現れているのは、双方向のベクトルではなく、絶えず実顕地に引き寄せて方針を決めていたのではないだろうか。

 

 実顕地紹介のフレーズに「金の要らない楽しい村」がある。そのために、そのような村・実顕地になるために、せっせとお金を貯めていき、実顕地の豊かさ、拡大に活かしていこうとなっていたのではないか。
「だれのものでもない」、村人が勝手に使うことができないお金の扱いに関して、びっくりするような実態の報告も度々聞くことになる。

 実顕地が注目された運動形態に、「愛児に楽園を」と、薬園村・子育て・学育方式がある。が、将来実顕地を担う人材養成の子育て、学育になっていたのではないかと。
 それに合わない子への安易な切り捨て。私の子どもたちも含めて、少なからずの人たちが学育・学園にいる資格がないということで村を離れることになった。

 ちなみに、私のごく身近な人で、学園にいる資格がないと言われたことがきっかけとなり、村を離れた子がいる。その子は村で生まれ育ち、今ではバイタリティーあふれる活動をしていて、「私はヤマギシの村でずいぶん鍛えられたとそれなりに面白かった」と言う。同じころ共に過ごした人たちには、かなりの親しみを感じている話を度々聴き、交流を重ねている友人も多いらしい。

 そのように思っているかっての学園生や青年、現在は30代、40代になっている人も結構いる。実顕地は特殊ではあったが、プラス・マイナス両面あわせもつことも、考察するときの素材として押さえておきたい。

 

 先にあげたおかしな方向は、組織が強固になっていくにしたがって、より強くなっていったと思う。早くから、この風潮が気になり、問い続けた人もいるが、全体の気風に押しつぶされて、離れざるをえなくなる人もいた。

 特殊な組織を離れて、普通の社会で暮らすようになって、一層そのことが見えてきたのだが、そのようなことの欠陥を、疑い、問い続けることを殆どしないまま日々の活動に邁進していた私がいる。結局は離れることになるにしても、歯痒さを覚える。

 私のなかに、ヤマギシズム運動、実顕地活動は、かってない社会を目指しているという根拠のない倨傲が心のどこかにへばりついていて、おかしなところが多少あるにしても、いずれ正されていくだろうという、あまりにもお粗末な甘さもあったのだろう。