広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎問い続けること、忘れられないことについて 

〇身近な人の事例から

 問い続けること、忘れられないことについての、最近の二つの事例に触れる。知人やそれと関係のある人の事例だが、特殊とはいえ内容的には共通するような事例もあると思っている。一つの事例として、推測を交えながら述べてみる。

 

 Aさんは、小さい頃親に伴われて、特殊なコミュニティ(村)で暮らすようになる。そこの気風や学園に馴染まず、やがてその村を離れることになる。親も様々な疑問を覚えて15年程前に村を離れる。

 長い間、そのようなところに連れていった親に対して、勝手に自分のしたいようにしている親に対して納得できないような思い、あるいは恨みのようなものを感じていた。

 親が村を離れてからは、いろいろなことで相談したり交流をしたりする中に、徐々に親に対してのわだかまりはなくなっていき、親に対する納得できない気持ちやその村での嫌な出来事も薄れていったようで、ほとんど意識に上らないようになった。傍目にも、何でも話し合える親しい間柄のように感じていた。そして、1年ほど前に次のような電話があった。

「親が私を不幸にしたと、そのことに拘っている私に気が付いた。今は自分で考えながら穏やかに暮らしていて過ぎ去ったことをどうこう思うよりも、自分の人生として生きていったらいいというのがはっきりした。いろいろとありがとう」と言っていたそうだ。

 その考えに至った経過の詳細については、よく分かっていません。ただ、定期的に話を受け止めてくれる人に恵まれていることはある。

 

 次は定期的に送られてくる機関誌の記事から、要点を述べてみる。

 Bさんは、最近ある長期の研修会に参加した。その中で、14年前の、やっとの思いで苦しみを吐き出した自分に対して、「いったいお前が俺に何をしてくれた!」と言われて、その言葉がトゲのように刺さったまま、思い出すたびに元夫への苛立ちが募っていた。

 そのことを研修会で話した瞬間、元夫の気持ちが滝のように流れこんできて、夫も私と同じように傷ついていたのだと、はっきりわかり、気づくと「わだかまり」は消え、申し訳ない気持ちを覚えた。

「長いこと、私は元夫の悲しみに気づこうとせずに、自分の恨み辛みだけを言い募ってきたのですから。とても大きな間違いをしでかしてきたのだと思いました」と、心にしみるような感想を寄せている。

 Bさんの事例は、私が関わったことのある長期の研修会や内観研修では、内容は一つひとつ異なるにしても、度々体験する。自分の感情、思いへのこだわりに相対的にとらえることができ、同時に、その状況での他者、相手の思いや感情を慮るようになる。

 様々なことを調べていく気風のような状況で、問い続け、素直に探っていくなかで、生じてくることがあるのだろう。単なる短期の話し合いでは起り難いのではないかと思う。

 しかし、Bさんは「心の旅」と表現されていましたが、私がとらえているよりも、もっと心を揺さぶられるような実感を伴った体験だったかもしれません。

 Aさんの事例では、ある種の割きりができてきて、頭の方ではほとんど意識に上らないようなことも、からだが忘れていないで、何かのきっかけで浮上してくるような痛みだろう。そこをのり越えていくような力が備わってきたことからの気づきではないだろうか。

 これは私の推察だが、AさんもBさんも、長年の苦労をのりこえて、話し合えるような気がおけない人にも恵まれて、今が穏やかに暮らしていることもあるのではないか。

 現在のその人の状況が、過去の出来事の捉え方に、大きな影響を及ぼすのではないだろうか。今の暮らしに不満を感じることが多ければ、過去の体験もそのように感じやすいし、今がある程度爽やかならば、過去の体験もそのようにとらえていく力が湧いてくるのだろう。