広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎いのちをめぐる対話と「けんさん」

〇けんさんと対話
 責任追及は横に置いて、被害者―加害者という構図ではなく、関係者が一緒になって、ひたすら真摯な話し合いを重ねることにより、JR福知山線脱線事故の事故原因、背景要因も探っていくという、遺族とJR西日本の「いのちをめぐる対話」に触れて、以前に所属していたコミュニティについて考えてみる。


 私が所属していたコミュニティはヤマギシズム運動の実顕地のことで、実顕地特有の課題もあるだろうし、理想や理念を掲げた組織、コミュニティ共通の陥りやすい問題もあるだろう。
 この論考では、対話をめぐるこのコミュニティの日常生活についてみていく。

 このコミュニティの特色として、すべてのことを「けんさん」及び「けんさん会」方式で考えていくということを、コミュニティ構成の核心に据えた。
 一般的に、研鑽は「学問などを深く究めること」の意で使われていて、研究者をはじめ仏道、芸道、武道などの「道」を究めていく人の表現によく出てくる。
 このコミュニティの理念の提供者である山岸巳代蔵のいう「けんさん」は、どこまでもキメつけないで本質を探究し続け、最も深く真なるものを解明し、それに即応しようとする考え方ということになるかと思われる。
 そしてその特色は、学問、芸事などのある特定の道を究めるというだけではなく、日々の暮らしがけんさん連続生活であり、その「けんさん」方式が、人々の間に浸透し、遍く社会全般まで広がることを目指したと思われる。

 実際の活動として、特別講習研鑽会(以下特講)という1週間合宿の講習会を黎明期に設け、それを通してあまたの人が運動に共鳴して活動したり、財産をすべてなげうって参画したりした人も多い。過去60年ほど、海外も含めて1900回強続いている。(※1953年3月会結成、1956年1月第1回特別講習研鑽会開催)
 また、特講に限らず、様々な長期、短期の研修会を運営の大きな柱として位置付けてきた。

 

 特講に参加した哲学者鶴見俊輔さんは、『山岸巳代蔵全集』刊行によせて、「けんさんを私が受けたのは、40年前のことで、それは今も私の考え方の底にのこっている。西洋渡来の学術語を使わなくとも、私たちの生きてゆくための重大な問題をこのようにして語り合う方法があるのか。そういう発見だった。
 そのようにしてくりひろげられる対話の中から、コロムブスの卵のように自然に、私たちのよりどころとしている共同性が、見いだされた。その共同性をどのように日常生活に生かすかは、むずかしい問題だが、一度見いだされた共同性から、私たちははなれるわけには行かない。」
(『山岸巳代蔵全集』刊行推薦文、鶴見俊輔「ヤマギシ会と私」2004年)

 

 私は、鶴見氏のいうところの「共同性」は、「お互いの『曖昧さ』と『疑い』を容認しながら、同一の資格で力を合わせる私たち」という意味合いでとらえている。これについては、10年ほど研修部門の役割についていた私の実感でもある。

 特講参加者にとって、用意された研鑽テーマを考えたこともあるだろうが、「くりひろげられる対話の中から、コロムブスの卵のように自然に、私たちのよりどころとしている共同性が、見いだされた」ことが、鮮明に印象に残った人も多いのではないだろうか。
 私の場合は、生まれも育ちも年齢も違う、人生観も社会観も異なる種々様々な人たちが、「怒り」などあまり深く探ったことのないテーマを、同一の資格で力を合わせ、同じ土俵のうえで、どこまでも一緒に対話を重ねていく、ものごとに対応していくことへの楽しさ、魅力を感じた。そのことがコミュニティ参画につながったと思う
 したがって、特講に限らず研修機会では世話や進行する人も含めて、同一の資格で力を合わせというようになることが大きなポイントとなる。そのことが分かっていない世話係や同格で力を合わせようとしない人がいると、研修会に不純なものが混じってくるようになる。

 日常的に随時考える研修機会があることで。窮屈に、嫌に感じた人もいるだろうが、以前ブログでも触れた、長野県で人の繋がりを大事にしながら魅力ある地域社会を展開している、コミュニティで育った青年(現在は40歳代)たちは、あのような場で随分鍛えられ今の自分たちがある。と期せずして言っていた。
 そのことも研修機会だけではなく、様々なことを若い同年代の人たちとお互いの違いを容認しながら、同一の資格で力を合わせてきた体験が大きかったのではないかと感じた。

 今度の「いのちをめぐる対話」は、「真実を明らかにするのを優先するために、責任追及を横に置く」、「どんなに納得できないとか感情が高ぶっても議論を続けるという、この忍耐の姿勢」。「これを会社側もご遺族の方々も共に守り抜いた」というのは、まさに「対話けんさん」方式の、大切にしたい要因であると思う。

 その中で特に、「共に守り抜いた」ところに注目している。
遺族「責めやしないと、責任をどうのこうのは言わないと。お互いにこの事故が何だったのか、何に問題があったのかということを、冷静に話をしようよと。」
会社側「憎いという感情を超えて『なぜ死んだのか知りたいんだ』と言い続けられる。『ここが分からない』とおっしゃるのはすごいことだと思いました。」
遺族の働きかけに、徐々に共感を覚えはじめ、共通の土俵で力を合わせて対話をしてきた。

 どこで何をしていこうが、相互扶助・相互支援的な地域社会のなかで生きていくときに、夫婦単位から大きな社会形態まで、対話で共に考え暮らしていくことが基本的な柱となる。

 鶴見氏の「(対話の中から)見いだされたその共同性をどのように日常生活に生かすかは、むずかしい問題だが」と、述べているが、では、対話けんさん方式を一つの核に据えているそのコミュニティの対話をめぐる日常生活はどうであったのか。

 このコミュニティで暮らしていた人達の中には、研鑽という言葉を、「少し考えておく」とか、単なる打合せに、「研鑽しよう」と使っていて、その集団内だけでしか通用しないような使い方をしていた。そのために、研鑽ということばに食傷を感じている人もいた。


 いろいろな角度から見ていく必要があるが、ここでは、研鑽会、相談、提案など対話で、よく使われていた「もっと研鑽したら」、「誰と研鑽したの」、「研鑽しとくよ」という3点についてみていく。
A:世話人、相談、提案を受ける側。B:参加者、相談、提案をする方

「もっと研鑽したら」:Aは同一の資格で力を合わせるどころか、同じ土俵に上がってない。
「誰と研鑽したの」:Aは同じ土俵に上がっていないし、そこにいない人を気にしている。
「研鑽しとくね」:AはBのいないところで、検討するかしないか決めている。

 勿論すべてこのようになっていたわけではない。私自身はBの立場での他者との対話で「お互いのずれと疑いを容認しながら、同一の資格で力を合わせる私たち」のような体験もしてきた。同じ土俵で対話をしたと思えることも度々ある。 
しかし、振り返ってみると、上記の3点に代表される気風がだんだんと強くなっていったと思っている。(※所属していたのは2001年までで、その過程での印象である)

 これは、Aの立場とBの立場の役割が固定化されていったこと、世話する人と世話される人の固定化、職場や組織を進めている人とそれに従っていく人というような役割の固定化などがあったと思う。
 そのような役割の違いがあったとしても流動的に入れ替わるという仕組みを作っていたにもかかわらず。


 理想を実現しようと集団で求めていくときには、危うい面も伴っている。組織のあり方、進め方を客観的に相対的に見ていくような仕組みが必要だが、機能していなかったと思う。
 それと構成員の多くにいえるのではないかと思うが、このコミュニティのあり方や進め方に対する根拠のない自信や安心感があり、おかしいと思っても突き詰めて対話(研鑽)の土俵にのせようとしなかったことがある。人によっては何とか対話(研鑽)にのせようと試みても、無視されたケースも多々あるだろう。結局、疑問を覚えた人は、土俵にのせることよりも組織を離れることを選ぶようになる。

 その要因として、そのコミュニティの理想や理念、あるいは、そのときに進めようとしている方向性から構成員の言動を見ていきがちになる。組織の安定や維持のために、中央集権化、階層構造化、官僚主義化を形成しがちになる。一人ひとりの違いを尊重することよりも、理念、理想やその組織の方向性に合うような人を有用な人材とみがちになる。そのこともあり、自分の頭で考えるよりも組織の頭で考えていくような人が現れてくるようになる。
 これについては、その組織特有のものもあるが、理想、理念を掲げた組織の陥りやすい問題だとも考えている。

 だが、このコミュニティは対話研鑽方式を構成の核にしていて、また、組織の陥りやすい問題をかかえないような仕組みを、当初から作ってきたのだが、理想が高ければ高いほど、それをどのように実現するかは綿密な試行錯誤を欠かすことが出来ない。この辺りの研鑽が中途半端なものになっていて、かえって分かりにくいものになってきた経緯がある。

 また、実顕地がよりよい方向に展開していくことを願っている。それだけに疑問点はきちんと分析して、次に繋げていきたいと考えている。

 

【参照資料】
鶴見俊輔 特別寄稿「ヤマギシカイとヤマギシズムについて」(1995年11月)

 私はヤマギシカイの本部に行って、七日間のけんさん(「特講」)を受けた。
 テキストがわたされ、それをめぐって、自分の考えるところをただいってゆ くうちに、はなしはぐるぐるめぐるという、めずらしい形のあつまりだった。人間は自分の底に、他の人と一緒に助けあって生きてゆこうという気組みをもっている(それは私の中にもある)。それをどうあらわしてゆくか、そのうちに、どこかで道からそれてしまうのだ。スターリンにしても、なみはずれた体力にまかせて、家庭で皿をあらい、掃除をすることを日課とし、その上でスターリン言語学の論文を書くようにしたら、彼の持つ天分を、圧制にふりむけることなしに、共産主義の成就のためにつくすことができただろう。言語によって命令することに終始すると、無害な活動に終らない。とざされた大学をつくるのも、圧制の準備になる。
 ヤマギシカイにおいては、その可能性はどのようにふせがれているのか。
 ヤマギシカイについて知ってから四十年、その会員とつきあいをもつようになってから三十年以上もたっており、その間、二度、ヤマギシカイの本部に行った。とにかくつづいているというのが事実であり、何よりも、この事実が重い。

 ソ連という共産主義国家はレーニンという最初の指導者がつくり、その国家はスターリンの独裁のもとにおかれた。ヤマギシカイは、これをはじめた山岸巳代蔵がなくなってからすでに一世代をへた。その間に何度も、中央の管理を受け持つ人の交替があった。これまでのところ権力者の固定をふせぎ得たことは、ひとつの達成である。同時にけんさんという集団会話の入り口を示すテキスト以外に、一つの固定したテキストをもたず、このテキストで対話をはじめると、相手の言うことをよくきく、怒りのトゲをぬいてきくということをとおして、七日間の対話をともにできる。この方式が、とざされた体系をつくることからかろうじて、この集団を今もまもっている。その中心には、山岸巳代蔵が戦争中自分の内部にかくしていた「ダレノモノデモナイ」という理念が生きている。

 シャカムニがあらわれる前に、無数のブッダが世界にはいた。
 おなじように、山岸巳代蔵の前にはいくつもの村があり、その村にはヤマギシズムと相通ずる理想があった。それをうけついでヤマギシズムがあらわれたのであろう。村を、欧米の近代文明よりもおくれたものとしてとらえる明治以降の日本にも、この理想はなじまないし、米国による敗戦と占領以後の日本にも、この理想はなじまない。しかし、原爆をつくって脅迫する国家制度をうけいれ発展する近代に対して、どのように対してゆくかの根拠地をここに求めるためには、山岸巳代蔵の戦中の理念をうけつぐことが、今も大切であるように私には思える。(『山岸巳代蔵全集(二)』山岸巳代蔵全集刊行委員会、2004年より)