広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎安心社会から信頼社会へ 

〇山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』(中公新書、1999)を読んで考えたこと。

・「安心」と「信頼」の違いは社会的不確実性の有無によって分けられる。また、信頼を要素分解すると二つに大別されると著者は定義している。

1、相手の能力への期待:社会関係や社会制度のなかで出会う相手が、役割を遂行する能力をもっているという期待。(飛行機や電車の運転手、医者や弁護士などの専門家など)
2、相手の意図による期待:相互作用の相手が、信託された責務と責任を果たすこと、場合によっては自分の利益よりも他者の利益を尊重する義務を果たすことに対する期待。狭義の信頼:相手の「人間性」や「行動特性」に起因する期待。相手の意図に対する期待は、社会的不確実性の有無によって信頼と安心とに分かれる。
3、安心:社会的不確実性がほとんどないと感じていることからの期待

 

 例えば何の担保も無く申し込まれた借金に対して、貸したとしても返してもらえない可能性があるという不確実性が存在している状況で、相手の人間性や、信頼に値する行動を取るかどうかを、あるいは返せる能力を期待してお金を融通することが信頼であり、安心はそのような相手の人間性などを考慮せずとも、担保があるなどお金が確実に返済されるという状態、つまり不確実性がないという状況下での相手の意図に対する期待を持っていることだといえる。

 著者は、集団主義原理によって立つ安心社会は、社会の仕組みそのものがそこに暮らす人たちに「安心」を提供してくれるという。その中に大方のところ同調して暮らしているかぎりは、個々人に対し信頼できるとか信頼できないとかは二次的であり、昔の農村社会のように、何か問題が起きたりすれば、村八分などの社会的制裁がある。

 会社の系列、株の持ち合い、護送船団方式も同じ流れのなかにある。「日本人らしさ」と呼ばれるものは日本人の心の中に最初からあるものではなく、日本の社会にうまく適応するために生まれてきた「心の働き」である。

 これに対して、信頼社会は自分自身で誰を信頼し、誰と協力行動をするかを決めなくてはならない社会のことであり、たとえ失敗のリスクがあったとしても、他者と協力関係を築くことにそのリスク以上の意義を認める社会のことである。

 これまでの日本社会を特徴付けていた集団主義的な社会関係の下では、安定した集団や関係の内部で社会的不確実性を小さくすることによってお互いに安心していられる場所が提供されていた。そこで人々が安心していられたのは、社会的不確実性が存在しているにもかかわらず相手の人間性を信頼できたからではなく、集団や関係の安定性がその内部での勝手な行動をコントロールする作用を持っていたからである。

 

○以上,大雑把にとらえた著者の見解から、私の関心に引き付けて考えてみる。
信頼も安心も、自分の感情のもち方であり、きちんと分けられるのかという課題はあるが、面白い視点なので、強引にとらえ返してみる。

「安心」は雰囲気的なものに対しての自分の期待であり、「信頼」は最終的には人(相手)に対するリスクを伴った期待となる。

親子、身内などの場合:相互に大きな困難がない限り、「安心」が生まれる。誰かの病気や衰え、社会的な事件を起こした時、相互の意見や行動が極端に違うときなどに「信頼」が問われる。

 オッパイの根本の役割は授乳ではなく安心をもたらすことにあるという考え方があるが、乳・幼児は何があろうと支えてくれる母(親)のもとで、信頼の感情が培われる。

 終身雇用制の会社、村、共同体などの場合:組織、集団の仕方に順っていればおおかた「安心」。そこからの逸脱や不信を覚えたとき、自分たちの力で「信頼」関係を結べる相手や地域を探す。

 自集団内部の関係性を大事にして来た日本型安心社会が、現在は大きく崩れてきている。

 以前私が所属していた実顕地(ヤマギシズム運動)では、「われ、ひとと共に繁栄せん」の理念のもとで人々の生活を終生保障する仕組みを作ってきた。その組織の具体的な動きに疑問を覚えない限り、経営的な強固な体制を作ってきたので、現在までのところ「安心」は保証されている。また、一部の人には評価もされている。

 だが、掲げる理念、理想のように組織が展開しているかどうかは、客観的によく見ていかなければならないが。その組織を主になって進めている人たちが信頼に与えするかどうかを問うことよりも、集団のもつ雰囲気や気分で、安心を覚えることになりがちである。

 以前に特異な事件を起こした集団にオウム真理教がある。そこの雰囲気、空気に魅力を覚えて、「安心」を求めて参加した人も多いだろう。だが、教祖の言動に、「信頼」は大きなリスクを伴うという知的な営みが全くなされずに、盲目的な「信頼」をおき続けたことで、悲惨な事件が起こったといえるのではないか。また、そのような雰囲気に人を誘うような組織のやり方があったのだろう

 様々な共同体の試みがある。どのような理念・思想で結集していようが、それを実現していくのは一人ひとりの生身の生き方の賜物である。

 その掲げる理念から認識するのではなく、醸し出す雰囲気からではなく、そこに参加している一人ひとりが、はたして信頼に与えするかどうか、不確実性を伴った信頼関係のもとで協力関係ができているのかどうかで見ていく必要があるのではないだろうか。