広場・ヤマギシズム

ヤマギシズム運動、山岸巳代蔵、実顕地、ヤマギシ会などに関連した広場

◎元学園生の手記を読んで 吉田光男

〇最近、ヤマギシズム学園出身者Iさんの手記を読む機会があった。学園についてはさまざまな批判があり、それが何であったのか実態を知りたいとは思っていたが、断片的な情報がほとんどで、学園出身者の生の声を聞くことはほとんどなかった。Iさんの手記は、私が秘かに推測していたものと一致しており、それだけにこれを学園だけの問題として済ますことはできないと思った。思うにこれは実顕地全体の問題であり、実顕地参画者一人ひとりの問題であり、ひいては教育界全体の問題であるとさえ言うことができる。

  手記は、次の一文から始まっている。
「私が小学校4年のとき、一緒に豊里実顕地の学育にいた小学校2年の弟のおねしょがなかなか治らない、ということがあった。おねしょをした朝、弟は真っ裸で学育舎の裏に立たされていて、そんなことが何度もあった。時には、寒い冬の日に、頭から水をかけられていることもあった。私は、すぐ横のニラ畑で収穫をしながら、『また、おねしょしたんだ。かわいそうだな。でも、自分はああならないように、いい子でいよう』と思って見ていた」

 次いで、中学・高校の時の個別研の経験を書く。
「高校1年のとき、豊里実顕地の高等部で2週間の『個別研』になったことがある。きっかけは『こういう服が着たい』と詳しく書いて提案書を出したら、買ってきてもらった服がそれと違っていたので、『こういう服じゃない。他のが欲しい』と言ったら『反抗的だ』ということで、そうなった。4畳半の窓のない部屋で、息が詰まりそうだった。トイレにだけは出られたが、お風呂はようやく5日に一回くらい入れただけだった。部屋には布団と反省文を書くための筆記用具や机があるだけで、隣が係の人の控室ということもあって、いつも緊張して座っていた。その部屋は2,3年生の階にあり、変な目で見られていることを感じていたので、トイレに行くのもとても気まずかった。とにかく、気が休まらなかった。『自分は何が悪かったのか』をずっと考えて、反省文を書いていたが、とにかく早く出たくて、『早く出してもらうには、何を係の人に言えばいいのか』とそればかり考えていた」

「その2週間の後、結局、反省が足りない、といいうことで高等部から追い出され、私は『実習生』になった。実習生は高等部に行っていない子たちの集まりで、村人と同じ空間で生活し、村の職場で働いていた。そこには数人の幼なじみもいたが、私は早く高等部に戻りたかった。『ヤマギシの中で実習生は落ちこぼれのように見られている』という感覚があったし、実際にそういう雰囲気が村にあったと思う」

 この「実習生は落ちこぼれのように見られている」というところは、村の大人の一人であり、間違いなくそう見ていた自分の胸にグサッと突き刺さる。

 

  私が大田原実顕地にいた時、Y子という高等部生が親元に帰されてきた。Y子の父親は、当時、村の流れに沿わないやや異端の人物とみなされていた。私が韓国の研鑽学校に世話係として行っていた時、彼が学育の係の女性を殴りつけるという事件が起こった。下の娘が叱られて泣いているのを聞きつけ、いきなり部屋へ飛び込んで暴力を振るったのである。私は、研鑽学校終了後すぐに帰国するように、との連絡を受け、爾後の収拾に腐心したが、そのしばらく後にY子が帰されてきたのである。当然のように「親が親なら子も子だ」という空気が醸成され、私も深く考えもせずその見方に同調していた。

 しかし、事情を何も知らない村人が、年端もいかない女の子を一方的に「落ちこぼれ」と看做すことが、どれほどひどい仕打ちであるか、いま思うと空恐ろしくなる。

 当時はそれほど深く考えることがなかったこの事件も、始めは喉元に小骨が刺さった程度にすぎなかったが、年月を経るにしたがってだんだん大きな痛みとして感じられるようになってきた。学園批判が高まったこの十数年来は、自分と自分たちの過ちとしてはっきり認識できる。

 

 今から40年以上前に、見田宗介氏が真木悠介のペンネームで『展望』誌上に、「まなざしの地獄」という有名な論文を書いたことがある。四人を射殺した永山則夫(当時19歳)の生い立ちに触れて、親に捨てられ読み書きも教えられずに、ははみ出し者・厄介者と見られてきた少年永山則夫が、周囲の大人のまなざしをどれほど地獄のように感じていたかを見田さんは書いている。

「落ちこぼれ」という大人たちの見る目が、どれほど子どもたちを傷つけるか、傷つける側の大人にはほとんど自覚されることがない。いじめや差別に通じるこの見方、感受性の欠如は、私たちの一体どこから生ずるのだろうか。

 Iさんは、先の手記の中で「個別研の部屋から早く出してもらうには、どう書けばいいのか、そればかり考えていた」と書いている。それで思い出すのは、やはりその頃よく本庁(あるいは学園事務局であったか)から送られてきた「赤鉛筆」という感想文集である。子どもの感想文に係が朱筆を加え、「ここは良い」、「ここは悪いからこう直すべきだ」等、いちいち指示を赤字で書き加えた文集である。私はこれを読んで「これは何だ、文章のどれもが金太郎飴のようで子どもの本心が少しも出ていないじゃないか」と思ったことがある。しかし、それもそれまでで、感じたことを一歩踏み込んで考えることをしなかった。

 村の大人たちが、そういう文章を読んで不思議に感じないのには、それなりの理由がある。当時の私たちは、実顕地の行うことは正しい、学園は子どもの可能性が開花する唯一の楽園である、と信じていた。いや、そればかりでなく、子どもが係に合わせて作文していたように、大人の私たち自身が物事を自分の頭で考えようとせずに、本庁や研鑽部といった指導的役割の人たちに合わせて考えていた。それがヤマギシの生き方であるとさえ思っていたのである。

 こうした私たちであれば、指導的な人たちの間で対立・抗争が起これば、何を考えるかではなく、どちらの主張が正しいかと、すぐそちらの方向に頭が行ってしまう。そしてそのどちらかに、自分の考えを合わせようとする。実顕地でやるのが正しいか、鈴鹿へ行くのが正しいか、あるいはこの花ファミリーへ行くのが正しいか……等々。いずれも研鑽の生き方とは懸け離れている。

 

  話を学園に戻せば、ヤマギシの学育という考え方は、子どもを育てる上でもっとも大事な考え方だと思う。「教え育てるのではなく、子ども自らが学び育つ」ようにする。そのためには大人は、教えない・導かない・枠にはめない・個々の能力が個性に応じて伸びるようにする、その環境を用意し、見守る。これは大変大きなテーマであり、世話をする大人の大変な能力と情熱を必要とする。子どもは一人ひとり違っている。体力や能力が違うだけでなく、何よりもその一人ひとりを形成する心の宇宙が異なっている。大人ももちろんそうであるが、子どもは自分の心の宇宙で物事を感じ取り、理解し、それを広げることも、狭めることも、歪めることもする。大人と違って、子どもの宇宙はまだ柔らかくたくさんの色に染め上げられていない。しかも、個性があって、一律ではない。

 こうした子どもたちを世話しようとすれば、大人は自分たちの考えで子どもを律することなどできることではない。導くよりも何よりも、世話係はまず子ども一人ひとりを知り理解する努力から始めなければならない。子どもに教えるのではなく、子どもに学ぶことが学育の出発点なのだと思う。しかし、これは口で言うほど簡単なことではない。また、配置で誰でもができることではないだろう。それだけの能力と情熱と感受性を備えていなければならない。学園にはそれをやりぬくだけの人材は用意されていなかった。しかし、何よりも問題なのは、学園の方向が学育理念とは懸け離れたものになっていたことである。

 

 学育理念について最初に書かれた資料がある。山岸さんが書いたと言われている「百万羽子供研鑽会」という子ども向けの研鑽資料である。その資料は、次の言葉で始まっている。

「研鑽会は、先生やおとなの人、みんなに教えてもらうものではありません。また、教えてあげるものでもありません。自分の思っている考えをそのまま言って、間違っているか、正しいか、みんなの頭で考えます。ですから、先生が言うから、みんなが言うから、お父ちゃんが、お母ちゃんが、兄ちゃん、ねえちゃんが言うから、するから、そのとおりだとしないで考えます」

  この文書には昭和33(1958)年8月の日付があり、春日山に百万羽が発足した当初、参画者の子どもたち用に書かれたものとされている。ここに言われている「先生やおとなの人」という言葉は、「学園の係や村の大人」と言い換えることもできる。つまり、係の言うことも「そのとおりとしないで考える」ということである。学育や学園という仕組みができる前に、学育の考え方が既にはっきりと示されていたのである。

 しかし現実は、学育とは全く違った指導・育成の方向にいってしまった。おねしょをしたら裸にして立たせる、あるいは水をかける。個別研と称して狭い部屋に閉じ込め、反省文を書かせる。しかも自由に書くはずの作文に「こう書け」と言わんばかりの指示を与える。こうした指示や体罰は、「教えない、自ら学び・育つ」という学育とどこに一致するところがあるだろうか。押しつけ・強制・体罰は、本来ヤマギシズム学育とは無縁のはずである。

 「子供研鑽会」資料には、続いてこう書かれている。

「みんながそうだとわかるところまで考えて……その中でそうでないと言う人や、わからないと言う人が一人でもいれば、みんなでもっと考えます。
 こういうようにして、一つ一つみんながそうだと言うところまで考え、正しいことを実行していきます。間違っていたらすぐあらためます。
そこで、人がしないからしない、あの人に言われるからしない、あの人がするから自分もする、というのではなく、人のことを言わずに正しく考えて、自分から進んでするのです。
 こうして自分自分が考えて、正しいことを実行していくのですから、ごまかさずに、だまさずに、わからないことはわからない、知らないことは知らないと言って、だれの言うこともよく聞き、一生けんめい考えます」(全集三巻・356頁)

 

 学園問題を論ずるときに、よく学育理念そのものがおかしかったのだ、という人がいる。しかし、決してそうではないだろう。学園のあり方・運営が、学育理念と懸け離れていたことが、躓きのもとになったのだと思う。そして、こうした躓きのもとは、学園世話係や学園事務局だけにあったのではない。本庁をはじめとする当時の指導部門、そしてその方向を無条件で信じ支持して学園運動を展開してきた私たち村人一人ひとりにその大元がある。したがって、“自分は関係なき第三者”という立場を装って、学園世話係の責任だけを追及する人もいたが、そこからは問題の本質が浮かび上がることはないだろう。

 しかし、学園世話係の多くが、学園生から恨みをかっていたのは事実である。学園出身者の一部には、仲間同士で集まると、「あいつだけは許せない」と今でも言っているそうである。よほどひどい仕打ちや暴力を振るわれたのであろう。そういえば、学園崩壊が始まった2000年前後に、「あいつが実顕地に戻ってきたらボコボコにしてやる」と息巻く子どもたちがいたと聞いたことがある。その係は実顕地の外に緊急避難して、遂に村に帰ることがなかった。そしてまた、当時の多くの世話係や学園関係者は、いま村を離れている。自分が、自分たちが行ってきた学園運動が何であったのかを振り返ることなしに。これは悲しい。

 この学園運動のたどった道は、敗戦後の日本の歩みとよく似ている。敗戦の責任を誰もが取ろうとせず、一部に責任のすべてを押しつけて、「我ら民衆は何も知らなかったのだ、騙されていたのだ」と、みんなが善良な市民を装ってきた。アメリカの原爆投下に抗議もせず、「二度と過ちは繰り返しません」などと、あたかも自分たちが原爆を投下したかのような碑を建てている。要するに歴史に学び、過去を自分の今として省みる力が弱いのである。そして今、再び憲法を改正し、戦争のできる“普通の国”にしようとし、あれほどの災害にも関わらず、原発=核の再稼働に向けて動き出している。

 

 話を元に戻す。I さんの手記について何人かで話し合っているとき、「学園の係が相当ひどいことをやったのは間違いないけれど、一人ひとりの係を思い起こすと、そんなに悪い人はいなかったね」ということで一致した。普通の意味では“いい人”ばかりだった。そのいい人たちが、しつけと称して体罰を加えたり暴力を振るった。しかも、それが子どものためだと思っていたのである。

 人間は観念の動物である。自分が正しいと信ずれば、何を仕出かすかわかったものではないし、また状況に強いられれば、最悪の事態さえ引き起こしかねない。親鸞は『歎異抄』の中で、善悪の基準などあるのではなくて、業縁(ごうえん)がなければ一人も傷つけることがないけれども、業縁がもよおせば「百人・千人をころすこともあるべし」と語り、「われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもふ」自力の考え方を退けている。

 私自身はこの親鸞の絶対他力の考え方にそのまま従うわけではないが、予め善悪・善し悪しを決めて、それで事を済ますことはできないと考えている。学園世話係が悪い人だったり暴力的な人だったから、体罰や強制的なしつけを行ったのではなく、それが良いと信じ、それが子どものためなのだと無条件に思い込んでいた結果なのである。ただ、ここには、自分の観念と子どもの心の世界との懸隔、そのギャップを理解し埋めるだけの知性・感受性に大きく欠けるものがあった。そしてそれは、学園の係だけでなく、村人の大半を捉えていた考えであり感覚でもあった。

  あれから十数年を経過した今、それでは当時の状況は払拭できているだろうか。できていない、というのが私の正直な実感である。確かに、全体的にソフトになり、「Z革命を私一代で成し遂げます」などと叫ぶ狂信的なムードはなくなった。しかし、その一面、どこか目標を見失った腑抜けた感じがあり、それは自分自身にもある。第一、学園運動が何であったのかを問う研鑽が何もなされていない。過去を不問に付す、そして振り返らない、こうした歴史を省みない生き方からは未来を切り開くことはできないのではないか。

 しかし、過去をあれは間違いであった、理念そのものがおかしかった、と一刀両断するだけでは何も見えてこないし、無責任でさえある。間違いだとすれば、自分は、そして自分たちは、なぜ間違ったのかを追究しなければならない。過去に間違いないと信じていたことが間違っているとすれば、今間違っていたと断定する考えが間違っていないかどうか。

 とにかく人間は誤り多き存在である。間違いだらけ、失敗だらけの人生だと言ってもいいくらいの存在に過ぎない。しかし、失敗や間違いは、貴重な財産でもある。そこを振り返り明日の糧にすることでより正しい道を歩むことができる。それには何が必要かといえば、一人ひとりが謙虚になって研鑽生活をする以外にない。「ヤマギシズム生活の絶対条件・生命線は研鑽である」と言われながら、実態は単なる話し合いや打ち合わせに堕していないだろうか。そして妥協や迎合に終始してはいないだろうか。

 

 先の「子供研鑽会」資料には、研鑽の本質が描かれている。
「本当に自分も良くなろうと思えば、みんなが良くならなければ、自分が良くなることが出来ませんから、みんなが良くなることは正しく、そうでないものを間違いとしてきめていきます。そうしてみんながそうだとわかるところまで考えてきめます。その中で、そうでないと言う人が一人でもいれば、みんなでもっと考えます。……ごまかさずに、だまさずに、わからないことはわからない、知らないことは知らないと言って、だれの言うこともよく聞き、一生けんめいに考えます」

 実に簡単明瞭に研鑽の本質を描き出している。「先生の言うこともおとなの人の言うことも」、つまり本庁の係であろうと学園の係であろうと、古い参画者であろうと、学識のある人であろうと、「だれの言うこともよく聞き」「ごまかさずに、だまさずに、わからないことはわからない、知らないことは知らないと言って、一生けんめいに考える」ことが研鑽だと山岸さんは言っている。しかし私たちのやってきたことは、「わからないことをわからない」と言わず、「知らないことを知らない」と言わずに、「あの人が言うのだから間違いなかろう」とか「こう考えるのが本当らしい」と、何となく正しいらしいと推測したものに進んで自分を合わせてきた。研鑽・けんさんと言いながら、もっとも研鑽から遠い生活をしてきたのではないか。学園問題の本質も、結局は研鑽の不在にあったのではないかと思う。

 では事は簡単、本来の研鑽生活に立ち戻ればいいだけである。と言いたいのであるが、そうは簡単ではない。山岸会発足から60年、春日山がスタートして55年、その間どれだけ多くの研鑽、研鑽会が行われてきたことか。しかしながら、実顕地の暮らしが真に研鑽に裏打ちされているとは言いがたい。これが現実である。私たちは、まずこの現実を正直に認めることから出発する以外にない。

 研鑽を妨げる考え方や気風には、何となく「みんなに合わせるのがいい」「全体の流れに逆らってはいけない」といったムードが働いている。反対や異論を嫌うのである。そこから、“全員一致”あるいは“一枚岩”の思想が生まれてくる。しかし、自分の中でもさまざまな相反する考えが浮かぶように、大勢の人の間に多くの考えの違いが生ずるのは当然のことである。「違って当然、しかも一致している」。では、何が違って、何が一致しているのか。

 

 鶴見俊輔さんたちの共同研究『転向』に、藤田省三さんは戦前の共産主義運動、特に福本イズムが支配的であった頃の一枚岩的組織について、次のように書いている。

(党内の)民主的討論の原則は、同質のものの間の空疎な用語の修正のやりとりとなって形骸化する。とともに他方、集団はいつの間にかエピゴーネンの集団と化す」

 コミンテルンの指導する国際共産主義運動に自らを合わせようとして、異論を封殺し、みんなが小スターリン、小福本になろうとして、遂にエピゴーネンの集団と化していったというのである。その際重視されていたのが、党内用語である。その言葉さえ使っていれば、異端とはみなされない“お守り言葉”として用いられ、その結果、言葉は貧困化した。言葉の貧困化は、思想の貧困化を招く。

 異論は、一つの方向が誤りに思えたときに、軌道修正する重要な参考資料になる。しかし、多くの運動組織は、左翼も右翼も宗教組織も、みな異論を排除して一枚岩の組織であり続けようとしてきた。そこから、組織内の闘争・指導権争いが起こり、排斥・除名、そして遂には投獄・処刑に至ることもしばしばであった。

 

 山岸さんは恐らく、こうした組織とは全く異なる組織のあり方をヤマギシズム社会組織に求めようとしたのだと思う。意見はいろいろ異なって当たり前、しかも対立にならずに、妥協や迎合もない組織のあり方、その一つの試みが実顕地ではないだろうか。そしてそのカギとなるのが“研鑽”である。研鑽が生命線というのは、まさにその意味にほかならない。

 研鑽は単なる話し合いでも打ち合わせでもない。「ごまかさずに、だまさずに、わからないことをわからない、知らないことを知らないと言って、だれの言うこともよく聞き、一生けんめいに考えます」。これは、誰でもわかる。納得できる。しかし、なかなか実践できてはいない。わからないことをわからないと言わず、知らないことを知らないと言わずに、沈黙したり、いい加減に聞き流したりしていないだろうか。そして、真剣に考えずに多数の意見に同調し、安心・安全を求めてしまう。こうした私たちの態度が、学園の行き詰まりをもたらし、I さんのような学園生を生み出してきたのである。

 時代は内外ともに行き詰まり、文明の大きな転換期に来ている。しかし、先行きは不透明で、未だどこへ向かうのか、向かうべきなのか、一向に見えてこない。ヤマギシの存在意義が時代に問われているのである。

 耳をすませば、この社会からはさまざまな喘ぎが聞こえてくる。子どもたちの間には、いじめや差別がはびこり、青年たちは就活に追われて自分が「何者」かわからぬ状況に置かれ、あげくは三割以上の若者が派遣労働を強いられている。また年寄りは年寄りで、その多くが老々介護や孤独死の恐怖にさらされている。今こそヤ  マギシの生き方が求められているのではないだろうか。

 しかし、そうした声を聞き取り時代の要請に応えるには、実顕地の生活を真に研鑽生活と言えるまでに深める努力から始めなければならない。そのためにこそ、まず「研鑽とは何か」ということを、あらためて考え直してみたい。

 

 先に「子供研鑽会」資料の一部を紹介したが、理念研の中で山岸さんが語った「研鑽」に関する発言を幾つか抜き出してみよう。

*人の意見を聞いた時も「こら、ええな」としたら危ない。むろん「こんなものいかん」と、そんなに早まるものでないと思う。

*「みんなが一致したから、それで良い」と、ここだけのそれをしたら危ない。……「これが良い」とキメてかかったら省みないわ、人が言ったかて。馬車馬みたい、盲馬というのか、目隠しして走ってる馬みたい、これではね。

*どうもはき違い、聞き違いが多いわね。正確に聴き取ったという人は一人もない。みな、謂ったら誤解や。それがずいぶん邪魔するということね。「わしはあの人をこう聞いた」といっても、言った人の気持ちと同じということは絶対ない。どんな澄み切った鏡に映しても、逆さに映るのやぜ。……せめて同じ方向の誤解ならましやけど、全く逆方向の誤解が相当あるね。……誤解が全部であり、曲解が相当あり、逆解釈もずいぶんあるということでかなわんが。

*反対の意見こそ、自分を再検討し、間違いへの警告であったり、前進への大きな参考価値があるかと思われるし、意見が違う間はわかりやすい簡単なことでも、わかりを妨げるものを自分側につくるもの……。

*どこまでも「果たしてそうだろうか」「そうであるかもしれないが、そうでないかもしれない」という線を残して、共に考え進められることが大切である。

*人間には……〈自動的な知恵〉を使おうとしないで、〈他動的な知識〉で盲従しようとする錯覚癖があるようだ。

*どちらも間違いをもっているだろうから、「そうじゃない」でなく、「そうかもしれん」で。信じ込まないこと。

*頑固と云うと、すぐ相手を考える。あの人さえ頑固でなかったら、あの頑固さがとれたなら、と。

*本当は全知全能でない限り、正しい判断は出来ないものと思う。あの人こそ最高の人格者であり、全知全能の神様の再現だから、凡人のわれわれの考えでは到底はかり知ることが出来ないなどと、ひとから聞いたことや、自分で感じたことから判断して、神様ときめつけ、全部が正しいかのように信じこみ、凡てをまかし、服従する盲信型もずいぶん頑固なもの。

*自分の考えは正しいか正しくないか分からない自分であり、また他の観念も正しいか正しくないか分からないとする自分になることから出発する。

*人間かしこぶるより、大バカになること。大バカが大仕事する。

 

 以上は、「山岸巳代蔵全集」の六巻および七巻から山岸さんの発言のほんの一部を抜粋したものであるが、考えさせるものをたくさん含んでいると思う。

 Iさんの手記を読んで、自分を振り返りながら、私は自分の研鑽不足に思い至った。不足というより、研鑽のない生き方をしてきたな、と思わされた。

 以上がIさんの手記を読んだ私の率直な感想である。この手記を読んだ人はぜひとも自分を振り返り、その感想を書いてみてほしい。未来の子どもたちのために、そして再び学園を用意するためにも、自分たちが、そして実顕地が、いま何をしなければならないかを共に考えていきたい。 (2013年10月記)

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※この論考は知人のブログ『ビジョンと断面』(現在このブログは閉じられている)に掲載された元学園生Iさんの手記を読んで、吉田さんがそのブログに投稿、掲載されたものである。(ブログは現在『自己哲学第2章「反転する理想」』(現在このブログは閉じられている)となり、Iさんの手記も掲載されている。ヤマギシズム学園問題を考えるにあたって、ともに考えていきたい問題提起だと思っていて、ここに取り上げる。

 この学園の「個別研」について、私の子ども、その友人たちから聞く機会が何度かある。特に中等部時代(彼らの1990年代)の酷さは聞くに堪えられないような話が多い。手記にあるような話は特別のことではない。男の子たちは、特にある男の人に、絶えずびくびくしていたそうである。その人は精神科医でもあり、実験材料にされていたのではないかという子もいた。

 付け加えておきたいことは、この人は、当時の学園全体を見ていた指導的な人たちに、怖い存在の役割を任されていて、重宝されていたことである。
 実際にあったことは、実顕地を離れてから聞くことが多く、とにかく酷いなと思うようなことの連続である。

 私自身は、学園、学育の方針などについてほとんど関わっていなかったが、ある期間、指導的な立場の人と様々なことを考える機会が度々あり、そのことを含めて当然、私も責任を負うべきであると思っている。